「奇抜な姿をした人を作りたい」世界が尊敬する造形作家・安居智博が生み出すカミロボをはじめとした「ちょっと幸せ」な世界
ぷかぷかアヒルや、ぴょこぴょこカエル、イヌ顔の工作のりの容器やラムネ菓子のボトルも、造形作家・安居智博さんの手に掛かると全身可動のスーパーヒーローフィギュアに変身する。安居さんが小学校時代に生み出した紙と針金のロボット「カミロボ」は、ニューヨーク近代美術館の公式ショップ「MoMA Design Store」で販売され、2006年にはニューズウィーク(News Week)誌の「世界が尊敬する日本人100」に選出された。
「ヤスイ締め」と呼ばれる独自の針金の結び方で、内なる世界観と造形素材と社会をつなぎ続けてきたクリエイターの歩みと、こだわりを伺います。
「平面の絵が立体に浮かんで見えた」とき、カミロボは動き出した
カミロボは安居さんのライフワークともいえる
紙と針金で作ったオリジナルのロボットだ
安居さんの創作の原点で、代表作の「カミロボ」はどのようにして生まれたのでしょうか。
「奇抜な姿をした人」が好きなんです。小さな頃から「ゴレンジャー」などの特撮ヒーローや「マジンガーZ」などのロボットアニメが好きだったり、「ミクロマン」(※1)「ロボダッチ」などの、おもちゃやプラモデルが好きでした。今思うと、人型をしたキャラクターの見た目の派手さや美しさ、かわいらしさに強く惹かれていたのだと思います。
※1 1974年にタカラから発売された約10㎝のオリジナルSFアクションフィギュア。侵略者アクロイヤーと戦うミクロマンという設定のみが提示され、子どもたちはメカやフィギュアを使って、自由な空想世界で遊べた。
そういうものに影響されて、自然に自分だけのヒーローを考えて、絵を描くようになり、ある日、ふと紙に描いたヒーローを人型に切り抜いてみたんです。ペラペラのヒーローをクネクネと動かして遊んでいるうちに、「平面の絵」がぶわぁっと「立体」に浮かんで見えて……「これはイイぞ!」と。紙を筒状にしたものにパーツごとの絵を貼り付けて、針金で手足を付けたのが「カミロボ」の始祖になりました。
小学生の安居少年が作った
記念すべき第1号カミロボ
なぜ「紙」だったのでしょうか。
小学4年生の時に、「ガンプラブーム」があって、自分もハマッて作りましたが、当時のプラモデルは「動かして遊びたい派」の自分には、可動域や強度に気をつけながら動かさないといけない、とてもデリケートな立体物でした。例えば作ったザクの足を動かそうとしてもスカートに当たってしまい(※2)、無理して動かすとポキッと折れたりしたんですよね。
でも、自分の作った「紙工作」だと、強引に曲げてもクニャーっとひしゃげたり(曲がったり)、バーンッとぶつけてもクッション性があって壊れなかったりして、アクション遊びの中で、より自分の気持ちにフィットする感覚があったんです。ガンプラは作ると、関節の構造やパーツの構成などがわかるので、自分の紙工作にフィードバックしていましたね。
※2『機動戦士ガンダム』に登場した人型ロボット・モビルスーツのひとつ。下半身がタイトなスカート状になっているため、プラモデルでは腿があまり動かせない。
ガンプラに学ぶ小学4年生(笑)。私も「おばちゃんガンプラ入った?」と毎日、模型店に行きましたよ。「ヤスイ締め」を考案されたのも同様の経緯でしょうか?
「ヤスイ締め」がカミロボを文字通り支えている
「ヤスイ締め」は、針金を使ったカミロボ独自の関節可動の仕組みですが、これの原点は「テレビマガジン」などの児童誌の付録に当時よくあった「紙工作セット」だと思います。例えば、自動車の車輪などの回転するパーツは、付属の割りピンを差し込んで留めるんですが、子供心に「この構造はすごいぞ」と思って、紙で作ったロボットの腕に穴を開けて、割りピンの代わりに針金を差し込んで先端をねじって留めてみたんです。それがヤスイ締めの始まりです。その時は「これで自分が考えたロボットを全身可動式で作れるようになった!」と興奮しましたね。しかも、関節がゆるんできたら締め直して微調整すれば良いし、パーツが壊れても針金なら外して交換もできるし、これはすごいことを思いついたぞ!と。
独自性と普遍性、2つの自分が織りなす「安居少年の作家性」
友達には「カミロボ」は広めなかったんですか?
何人かの友達には見せていましたが、基本的には「自分だけの楽しみ」だと思っていました。漫画やイラストは「コミュニケーションツール」として、友達を笑わせるためにサービス精神全開で描いていましたが、一方で「カミロボ」は自分だけの楽しみのために作るもので、皆に受け入れられるとは思わなかったですし、恥ずかしい内面をわざわざ見せる必要はないと思っていました。
小学生の時点で、プロのように請負仕事の作品と趣味の作品を作り分けていたんですね。
場面によって自己アピールする部分を変えるような感覚は小学生の時からありましたが、それが顕著になったのは中学生の頃からです。それまではスポーツは苦手だったんですが、中学に入ったら急にできるようになって、サッカー部ではレギュラーに選ばれました。学校ではサッカー部の自分、家では漫画を描いたりフィギュア作りに没頭する自分、というふうに、2つの自分を使い分けているような、ある種の二重人格のような感じになって……。自分をどういうふうに説明したり、アピールしたらいいのか、一貫性がないような感じがして、そのことには戸惑いもありました。「自分は分かりにくい人間なんだろうなぁ」と思ったりしましたね。
それでも「カミロボ」は作り続けていたんですか。
中学の時に「こんな幼稚な遊びを続けていてはダメだ!」と、カミロボ作りを”封印”しました。外側向きの自分としては、相変わらずのサービス精神で作ることや描くことをコミュニケーションツールとしてアピールしていたのですが、高校では独特の冷めた空気に馴染めずに空回りして浮いていたと思います。そういうのもあったので、有り余ったエネルギーをぶつけるように(笑)、サッカー部の仲間と「特撮映画」を撮りました。
外側向きのクリエイティビティーの目覚めと周囲を巻き込む力
サッカー部と「特撮映画」は、どういう経緯でつながるのでしょうか。
文化祭がきっかけです。文化祭や体育大会では、クラスの制作物を任されがちだったのですが、誰もやりたくない、誰も興味のない外れクジを「別に誰でもいいんだけど」となすりつけてくる感覚には違和感があったので、それだったらサッカー部を中心とした気の合う仲間たちとバカバカしい自主映画を作ることにエネルギーを使おう!と思いました。部活やクラスではない団体の発表会は前例がなかったので、場を作るところから手続きして、上映にこぎつけました。
映画の内容や、製作のことを教えてください。
「特撮ヒーローコント」のような作品で、デザインや内容は自分が中心となって考えました。着ぐるみも特撮用のミニチュアも、すべてが「笑い」につながるように考えて作りました。例えば、自分たちの高校のミニチュアをダンボールで作って、そこで巨大ロボと宇宙人を戦わせたり、「ダンボール製の粗末な着ぐるみ」をあえて再現したミニチュア人形を空に飛ばすことで、一瞬の驚きを挟んで笑わせたりして。「校内」という閉鎖されたコミュニティーにおける、笑いのポピュラリティーのバランスは意識していました。
身近な舞台設定や、チープさを逆手に取った演出、これはもう鉄板ですね。
上映時にはセリフが聞き取れないくらいの大爆笑が起きて、大成功でした。あの時の感覚が「作ることや描くことでコミュニケーションをとる外側向きの自分」のその後の大きな基準になったと思います。
造形大学での自己解放と就職活動
プロレス熱も再燃し作りたくなったという
プロレスマスク
美術学生時代のことを教えてください。
何を学んだ、という具体的なものは正直なところないんですが、これまで会ったことのないような「ヘンな人たち」が大勢いて、すごく刺激を受けましたね。僕は、課題として発表する立体や絵を制作する一方で、戦隊シリーズのレッドや、「仮面ノリダー」のフィギュアを作って、VOLKS(※3)のコンテストに出したりしてました。
マニアックな友達はいたんですが、例えば「スーツアクターの新堀和男(にいぼり かずお)さんが中に入っている戦隊レッド(※4)のプロポーションを再現して作ったフィギュアなんだよ」といっても、さすがにそこまではわかってもらえなかったり…(笑)でもそういったフィギュアに対しても偏見を持つことなく、人体デッサンや質感など、彫刻的な視点でアドバイスをくださる先生がいて、そういうのはとても嬉しかったです。「カミロボ」も、この頃に封印を解いて、また作るようになったんですが、前のようにひっそり隠して作るような感じではなく、「自分はこれでいいんだ」と自然体のままで作れるようになりました。
※3 VOLKS(株式会社ボークス)はレジンキャストなどで少数生産されるガレージキットの大手メーカー。京都に本社を置く。
※4 スーツアクターとは、特撮ヒーローの着ぐるみを着用して演じるアクション俳優の通称。新堀和男さんは『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)から『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)までスーパー戦隊の歴代レッドを演じた。
「新堀レッド」いいじゃないですか! その戦隊愛は就職につながりましたか。
ああ……ここにはいたんですね、わかってくれる人が(笑)。それは置いておいて、大学を卒業後は東京へ。特撮ヒーローの撮影用スーツなどを作っているレインボー造型企画株式会社に就職しました。
それって野球で言ったらヤンキース、サッカーだとFCバルセロナにいきなり入団したようなものですよね…。どうやって入社したんでしょうか。
京都の東映太秦撮影所で働いていた先輩に、東京撮影所の特撮スタッフの方を紹介していただいて、面接を受けに上京しました。面談に自分の作品集を持参しました。結果、まずは3ヵ月のアルバイト(試用期間)からということで採用に。その後、無事正社員になりました。ここで3年間、テレビや映画で使うロボットの着ぐるみや怪人などを作りました。FRP成形やラテックス造形はもとより、硬質なロボットを軟質のウレタンと合成レザーで表現したり、先輩からミシンの使い方を教わったりして、素材も道具も技術も含めて「造型の幅」が広がりました。そのおかげで、自分のもう一つの趣味である「プロレス熱」が再燃してきたんです。子供の頃、タイガーマスク(初代:正体は佐山サトル)に夢中になって、「カミロボ」の世界観も生まれましたし、友達とのプロレスごっこで、マスクを自作してかぶったりしていたんですけど、当然、当時はビニール袋を加工した程度のもので。本物の布製のプロレスマスクに憧れがあったんです。レインボー時代にミシンに触れて「これは頑張って試行錯誤したらプロレスマスクを作れるようになるんじゃないか?」と一人で盛り上がってしまって、ワケもわからず高価なミシンを買って、会社から帰ると布や革を縫い合わせて研究するようになりました。
小学生時代からずっと「外向きの作品」と「内向きの作品」を作ってきたんですね。
そうですね。レインボー造型を退職後、プロレスマスクを作る会社に就職したんですが、そのときもガレージキットの原型を個人的に請けて作っていました。自分の中では、硬い造形物も、軟らかい縫製品も同じ「造形物」という認識で、「どっちを選ぶ」ではなく「どっちもやりたい」と思うようになって、最終的にフリーランスになりました。
フリーランスの造形師、そして世界へ
フリーランスの造形師の仕事はどのようなものだったのでしょうか。
自分の創作物を販売できる「ワンダーフェスティバル」(※5)をはじめとする造型系のイベントもありましたし、そこで出会った方から依頼を受けたりして、少しずつ仕事は広がっていきました。ただ、自分1人で回せる作業量には限りがあるので、自然と小さい造形物が多くなりました。ちょうど「食玩」が大ブームで、その原型を作る仕事がメインになっていました。チョコエッグのキャラクターの原型もたくさん作りましたよ。他に、イベントやテレビで使うヒーロースーツの仕事なんかもやりました。いろんな仕事を依頼してくださった方々との出会いには本当に感謝しています。
※5 通称ワンフェス。造形メーカー・海洋堂が主催する世界最大のガレージキットイベント。1984年に始まった頃は、浜松町の東京都立産業貿易センターで開催された手作り感あるイベントだった。
出会いといえば「ほぼ日刊イトイ新聞」のロゴなどで知られるクリエイティブディレクターの青木克憲さんとの出会いはいつでしたか。
2001年頃です。青木さんが手掛けられていた広告のノベルティグッズの原型を作ったりする過程で仲良くなり、たまたま見せたカミロボを面白がってくれて、発表のプロデュースをしてくださいました。それで2004年頃からイベントやメディアへの出演や露出が増えていきました。2005年の「カミロボ・エキスポ」の後、青木さんが海外のエージェントとつないでくれて、「MoMA Design Store」での販売も決まりました。最初は、自分の楽しみのためだけに存在した一点物の「カミロボ」のクローンが作られていくことに違和感があったんですけど……そんな時に偶然、高校生の頃に買って本棚に立ててあった石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』の後書きを改めて読んで、衝撃を受けたんです。「高校生の時には読み流してしまっていたけれど、こんなすごいことが書いてあったのか!」と。
“「(あなたが生み出したあなたの友だちを)ほかの人に――読者という名まえのたくさんのアカの他人に見せ/みんなの友だちにしてやろうと考えはじめたときから、あなたの幸福感はすこしずつこわれはじめるのです」”
(秋田書店『石ノ森章太郎のマンガ家入門』より引用)
「自分の表現」を「皆の娯楽」へと変換する過程で生じる痛み、という生々しい言葉でプロ意識を持つことへの覚悟が記されていて、それを読んだ時に自分の感じていた「違和感」に対する気持ちの整理をすることができて、商品化への「GO」を決断できました。
それもまた奇跡的な“出会い”ですね。安居さんの内側と外側がクロスした瞬間ともいえるのでは。
そうですね。それが、2014年の「カミロボプロレス30周年」展でのカミロボ最終回ともいえる、大一番の戦いにつながりました。それまで交わることのなかったカミロボキャラクターのバードマンとマドロネックサンの戦いというのは、「自分のための作品vs外向きの作品」という、僕自身の戦いの物語でもあるんです。それが決着したことで、僕の中での「一人遊び」も一つの大きな区切り目を迎えることができた。「内面をさらけ出すだけでは作品にはなり得ない」ということも分かりましたし、内向きと外向きの両方が必要なんだということも、実感しました。「カミロボ」の一つの大きな完結編ともいえる物語を機に、作品の作り方も変わってきたと思います。
仕事を続けていくということ、この時代に表現していきたいもの
SNSなどで大きくバズったぷかぷかアヒルや
ラムネ容器で作り上げたフィギュア
今後、やってみたいことや扱ってみたいものはありますか。
現在進行中のものとしては、「カミロボ」の「異素材軍団」シリーズをTwitterで発表するスタイルに力を入れています。「カミロボ」は立体造形物ですが、「異素材軍団」は写真という「二次元」に落とし込んだ時の美しさや面白さにこだわっています。SNSなどのコメントで「ああ、この方も同じところがいいと思ってくれているんだな」と共感を実感できる瞬間が好きです。作品を楽しんでくださる方々にはいつも力をもらっています。冊子を作るのも好きなので、カミロボ本のように、造形物を一冊の本にまとめるのも続けていきたいし、個人で作品を作りつつ、集団で何かを作ることにもチャレンジしたいと思っています。
お弁当に入っている「ばらん」で作った
異素材軍団
「after コロナ」「with コロナ」の世界で、安居さんのクリエイティブに変化が現れると思いますか。
今年の2月に発表した「アヒル」もそうですが、すでに変わってきていると思います。これまで当たり前だったものが、当たり前じゃなくなった世の中で、小学3年生でカミロボを作り始めた頃のような気持ちに立ち返っているというか……。
親戚のおばちゃんに見せたら面白がってくれたとか、そういうシンプルなものが幸せな図式だったなぁ、と感じています。僕個人としては、これからの世の中では、ちょっとした喜びとか、小さな幸せを感じるとか、そういったことがクリエイティブにとっては大事なことなんじゃないかな、と思うようになりました。
クリエイターを続けていくために必要なことは何だと思いますか。
「仕事として発注されて形にするもの」と「自発的に作りたいもの」の両方をいつも持っていることじゃないかと思います。小学生の時の「友達を笑わせるためのマンガ」と「自分のためのカミロボ」もそうですし、スポーツをやりながら家ではフィギュアを作っていたり、ふたつの間を行ったり来たりすることで、互いに影響し合って化学変化が起きるというか。
請け仕事で難題を乗りこえた時に、個人的な作品のヒントが生まれることもありますし、自発的な作品がきっかけで仕事が舞い込むこともあります。両方を持ち続けることが「続ける」ための秘訣(ひけつ)なんじゃないかと思います。
最後にクリエイターを目指している人へのアドバイスをお願いします。
「ここで完成」というところまで作品を仕上げて、それを残しておくことをお勧めします。時間が経ったら、それをこっそり見て、「うわぁ、こんなの作ってたんだ」と恥ずかしい思いをしてみると、自分の原点を思い出したり、大事にしていることが分かったりすると思います。
取材日:2020年5月29日 ライター:平松正樹
※オンラインにて取材
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