ライターとして、編集者として、 死ぬまで好きな仕事を! ずっと続けていくための「場所」
- 東京
- 株式会社Playce 代表取締役 秋山 由香 氏
デジタル、そして書くこと…… 「好き」なことを生かした仕事に
最初に、会社を設立するまでのキャリアについて教えてください。
新卒で「ゲームの攻略本」をメインで扱う編集プロダクションに入社し、徹夜でゲームをプレイしながら攻略本を作るという激務を経験しました。そこに1年ほど勤務し、中堅の出版社に転職。編集者として、『HOME PC(ホームピーシー)』(旧株式会社デジット発行)という雑誌の特集企画や連載を担当していました。当時はWindows95が出始めた頃で、パソコン雑誌バブルのような時期。インターネットへの接続方法やネットオークションの活用方法などを解説する記事などに人気がありました。
デジタルやゲームという分野には、もともと興味があったのですか?
はい。PCやゲームハードが身近にある環境で育ちました。中学生のときに自分専用のPCを購入、パソコン通信に触れたのも早かったんですよ。ニフティサーブでパソコン通信を始めたのは高校生の頃でしたが、当時は学生で、しかも女性ユーザーはかなり少なく、「女子高生です」と自己紹介しても全然信じてもらえませんでした。
「書くこと」そのものは、もともと得意だったのでしょうか?
そうですね。初めて文章を書いてお金をいただいたのは高校生のときでした。先生が「地元紙でレポート記事を書く高校生を探しているから挑戦してみたら?」と勧めてくれて。文化祭のレポートを書いて、3,000円ほど原稿料をいただきました。
小学校1年生の頃、唯一ほめてもらえた教科が国語だったんですよね。親もそれが印象に残っていたようで、「得意なことを生かして将来の仕事につなげられるといいね」と言われて、小さな頃から「書くこと」は意識していました。
ライター・編集者の枠にとらわれないフリーランスとして
得意なことや好きなジャンルを生かせる会社だったと思うのですが、そんな中でフリーに転身したのはどうしてですか?
もともとフリーになろうという気持ちはなかったんです。編プロから出版社に転職したのは『HOME PC』という雑誌に関わりたかったから。パソコン誌なのにファミリー向けという異色のポジションに面白さを感じ、やりがいを持って制作に当たっていました。ところが、パソコンバブルが崩れ、急激に業績が悪化し、入社から2年後に廃刊になってしまったんです。「他の編集部に異動しないか?」と声をかけていただきましたが、『HOME PC』に関わりたくて入社したこともあり、悩んだ末に辞退しました。退職し、少しのんびりしながら先のことを考えようと思っていたのですが、運良くいろいろな会社から執筆のご依頼をいただいて、フリーの仕事を始めました。
当時は、クリエイターズステーションを運営する株式会社フェローズからのお仕事にもご協力いただいていたということですが。
はい。フェローズさんとの出会いは、当時フリーで関わっていた雑誌の「人材会社特集」で野儀社長をインタビューしたのがきっかけです。その後、ご縁があって、いくつかお仕事をご依頼いただきました。
フリー時代、特に思い出深い案件にはどのようなものがありましたか?
とある食品の広告ディレクターを務めた仕事ですね。広告制作会社のスタッフとして、3年間の長期キャンペーンに参加しました。
ライター・編集者だけでなく、PRプランナーのようなこともされていたのですね。
はい。その広告制作会社はとても懐が広くて、外部クリエイターとして関わり始めた私にさまざまな仕事を任せてくれました。PRキャンペーンでご登場いただくタレントさんの選定・アサインを任せてくださったり、ラジオとのタイアップ企画を担当したり、広告出稿先の選定権限を予算とともに丸々預けてくださったり。本当に自由にやらせていただきました。ここでの経験が礎となり、コピーライターや広告ディレクターの仕事につながったものと思っています。
フリーランスは自分で自分の職種を決めることになりますが、秋山さんのように枠にとらわれず突き抜けていく姿勢も大切なのでしょうね。
当時は若かったので、「オーダーされた仕事は全部やろう」という気持ちでやっていました。それを積み重ねることで、幅広いスキルや専門性を身に付けることができたと思います。おかげさまで、収入的にも満足していました。フリー時代の5年間にさまざまな領域の仕事を経験したことが、起業後の現在にも生きています。
「誠実に制作に向きあうフリーランス仲間」が集まり、 仕事の幅を広げていく場所に
Playceの起業には、どんな背景があったのでしょうか?
フリーで仕事を続けながら、漠然と「私は将来どうなるんだろう?」と考えていました。「今は若いからいいけれど、5年後、10年後、同じように仕事を続けていられるのだろうか」という気持ちがあったんです。個人で完結するようなコンパクトな仕事だけでなく、企画から関わるような大きな仕事に挑戦しながら、貪欲にスキルアップをしていかないと、いつか生き残れなくなるのではないか、と。
ちょうど仕事との向き合い方を考えた時期でもありました。当時はできる限りの仕事を請けていましたが、一人では抱えきれずにご依頼を断らざるを得ないというシーンも増えていました。お客様の期待に応えられないことが心苦しく、いろいろな意味で「これはもったいないな……」と。同じ悩みを持つフリーランスの仲間と連携して、上手に仕事をシェアしていくスタイルもアリなんじゃないか、と考え始めるようになりました。
創業メンバーの方とは、どのようにして知り合ったのですか?
28歳の頃に著書を出したんです。それが当時の自分にとってはすごく大きな出来事でした。がむしゃらに仕事を続けてきて著書も出せたことで、ちょっとした「燃え尽き症候群」のようになってしまった時期があったんですね。その翌年に結婚したこともあって、目標や仕事のやり方を見直すことを決意し、いろいろなライター仲間に「ユニットを組んで仕事をしない?」と話していました。そうして声を掛けていた中で賛同してくれたのが、創業メンバーの女性だったんです。
仕事の請け方は、法人になったことで変わりましたか?
そんなに大きな変化はありませんでした。というのは、立ち上げはソフトランディングで、個々のスタッフが少しずつ働き方や取引先との関係を変えていくという感じだったからです。最初は個人でバラバラに仕事をしていたのを、徐々に会社として仕事を受けるようにしていきました。がらりと変わったのは、設立3年目ぐらいでしょうか。半年がかりのプロジェクトやコンペなど、法人でないと請けられないような仕事が増えました。
稼げるフリーランス同士が一緒に始めたからこそ、無理なく会社の形を整えていくことができたのですね。
そうですね。初期投資はどうしても必要です。ある程度資金面で余裕があるメンバーが揃い立ち上げに至ったことでソフトランディングが可能になったと思います。そうしたやり方に理解を示してくれる仲間に助けられました。
文章力を磨き、仕事に向かう気持ちを 研ぎすませていく方法とは
貴社では「編集者兼ライター」として活躍されている方が多い印象ですが、「編集者」「ライター」にはそれぞれどのような役割を求めていますか?
「編集者の仕事はこれ」「ライターの仕事はこれ」と明確に区分するようなことは特に考えていません。弊社が求める人物像としては両方をまんべんなくこなせる人がベストですが、それぞれに求める力は異なります。
編集者は、「ディレクション力」と「企画力」を鍛えることが大切。たくさんの人を動かして、ハブとして機能する立場です。企画を考えるのも編集者の仕事で、それによってアウトプットの善し悪しも変わってくるので、ビジョンを持って設計図(企画書)を作らなければいけませんね。これがぶれていると、どんなに優れたライターやカメラマンをそろえても良い制作物にはなりません。
それに対してライターは、「ライティングを通じて企画をいかに具現化するか」が求められる立場なのかな、と思います。
クオリティを担保するために社内で取り組んでいることはありますか?
「超基本的なこと」を大切にしています。エビデンスやソースがしっかり確認できるものを資料にするとか、校正時のチェック徹底とか。文章力を鍛えるという意味では、「社内でのクリエイティブチェックを細かく行う」「研修などで継続してスキルアップを図る」ことなどを意識しています。また、「写経する」ことも勧めているんですよ。
「写経」ですか?
はい。今、関わっている案件をイメージしながら、自分の好きな文章やコピーなどをひたすら手書きで写すんです。私自身、コピーライティングに携わるときには心が揺さぶられるようなコピーをピックアップし、見直して、何度も紙に書きます。「ああ、このコピー素敵だな」という思いを改めて確認し、「じゃあ今回は、どんな言葉を紡げばより“届く”のだろう?」と考えながら、自分が向き合っているクライアントの案件に対して気持ちをセットしていくんです。日々忙しくしているとこうした時間を確保することは難しいかもしれませんが、大切なプロセスだと思います。
最終的に、クライアントへプレゼンしたり、コンペになったりした際に、「いろいろ考え抜いた中でこの提案がベストなんだ」という自信を持てなければ勝てないと思うんですよね。そういう意味でも、気持ちと考えを研ぎすませていくことは重要だと思います。
大切なのは、今日の仕事に全力を出すこと
今後、Playceとしてはどのような展開をお考えでしょうか?
実は先日も、とある取材で同じようなことを聞かれたのですが、答えに窮してしまったんですよね(笑)。少しネガティブに聞こえるかもしれませんが、あえて言うなら「潰れないようにする」こと。それが私の一番のミッションです。もともと好きで始めた仕事ですし、今は一緒に働く仲間もいます。ですから、生涯、誇りを持って働ける“場”を維持し続けたいと思っています。
20代の頃は若さもあって、あまり先のことは考えていませんでした。日々の仕事をこなすのに精一杯で「このまま過労死するんじゃないか」と思っていたぐらいです(笑)。ただ、死ぬまでずっと好きな仕事を続けたいと思っていました。言葉にすると簡単に聞こえますが、死ぬまで好きな仕事をやり続けるって難しいですよね。がむしゃらに仕事をすることも大切だと思うのですが、それだけだと、いざというときに場所がなくなってしまうこともあるかと思うんです。若いうちなら何とかなるかもしれませんが、歳を重ねてからでは、取り返しがつかなくなります。だから、無我夢中で、でも考えながら。この場所を維持し続けることが私の目標です。60代、70代になっても会社を存続させることができれば、後に続く人たちも同じようにこの場所を大切にしてくれるんじゃないかと思っています。
まさにここが、秋山さんや社員の皆さんが好きな仕事を続けていくための「プレイス」なのですね。しかし「20代で過労死」というのは……。
若い頃は、自分が長生きをするというイメージを持っていなかったんです。よく就職のための面接で「10年後のイメージは?」という質問をされるかと思いますが、私はいつも「分かりません」と答えていました。答えようと思えば、いくらでも答えられるのですが……。10年後のイメージを決めることは、自分の限界を決めてしまうことだとも思うんです。目の前の仕事に一生懸命向き合い、日々、考え、経験を積み重ねていくことこそが、予想を超えた10年後の自分をつくると思います。その考えは今も変わらず、会社の今後についても、あえてその答えを言葉にしないようにしています。
仕事も結婚生活も楽しみ続ける「プレイヤー」として
ご結婚されてから、働き方や会社に対する考え方に変化はありましたか?
結婚した当初は「仕事がしにくくなった」と感じたこともありました。これは夫のせいではなく、自分の中で「仕事も家事もそつなくこなして、良い奥さんでいなきゃいけない」という思いがあり、全部をやろうとしていたから。ところが、仕事が激務ということもあり全然手が回らなくて、最初はしんどい思いをしました。
「しんどい思い」がなくなるきっかけは何だったのですか?
実は一度、過労で入院したんです。それまではクリエイターとして、経営者として、妻として、変に頑張ろうとし過ぎて、うまく力を抜くことができていませんでした。休んでいる間に自分の働き方、生き方を振り返り、「このやり方を続けていたら、いずれ大好きな仕事ができなくなってしまう」と危機感を抱いて……。仕事を続けながら結婚生活も楽しむために、「そもそも全部はできないんだ」と割り切ることにしました。
夫は雑誌の編集者で、とても忙しい人なので、結婚当初は「少しでも支えなきゃ」と思って頑張り過ぎていました。でも今は、夫も私のペースに合わせてくれて、お互いに仕事とプライベートのバランスをうまく取って楽しむようにしています。
秋山さんのお話を伺って、経営者としてはもちろん、クリエイターとしても「好きなことをやり続ける」という強い思いを感じました。
会社を経営していくことと、ライティングや編集を通してモノを作っていくことは、別の方向にベクトルを合わせていく仕事だと思っています。私の場合は、もともと好きなことを「仲間」と一緒に続けるために会社を立ち上げたので、経営者である一方、現場の仕事にもずっと関わっています。「プレイヤーであり続けたい」という思いは強いですね。利益のためだけに起業したわけではありませんし、現場を離れて人を動かすだけの生き方をすることにもあまり意義を感じません。そういった意味では、いわゆる「経営者」になりたいと思ったことは一度もないんです。おじいちゃん、おばあちゃんになっても、誰かのために。誠実に、ものづくりに取り組みたいと思っています。
取材日:2016年5月10日 ライター:多田慎介
株式会社Playce
- 代表者名: 代表取締役 秋山 由香(あきやま ゆか)
- 設立年月: 2007年9月
- 事業内容: PR誌・パンフレットなど広告宣伝物の企画・制作、書籍・雑誌・ムックの企画・制作、 Webサイトの企画・制作、モバイルサイトの企画・コピーライティング、 クリエイティブ・出版業界に関する人材トレーニング
- 所在地:東京都渋谷区神宮前3-21-2 原宿パレス3F
- URL:http://www.playce.co.jp/
- お問い合わせ先:上記HPの「Contact」より