暴走族リーダーや中国奥地への突撃取材… 好奇心に支えられた「記者魂」で、 新たな映像ビジネスへ挑む
- Vol.134
- テレビ東京 プロデューサー 小林史憲(Fuminori Kobayashi)氏
- Profile
- 株式会社テレビ東京 / プロデューサー
1972年生まれ。1998年に立教大学法学部を卒業後、テレビ東京入社。警視庁記者クラブの事件記者を経て、『ガイアの夜明け』『カンブリア宮殿』のディレクターを担当。2008年~2013年、北京支局特派員として『ワールドビジネスサテライト』の特集などを担当。帰国後は『ガイアの夜明け』プロデューサーを経て、2016年にコンテンツビジネス局へ。番組をネットや海外へと発信するべく奮闘している。著書に『テレビに映る中国の97%は嘘である』(講談社新書)、『騒乱、混乱、波乱! ありえない中国』(集英社新書)。
テレビ東京へ入社してから18年間、一貫して報道畑を歩んできた小林史憲さん。警視庁記者クラブの事件記者やニュース番組のディレクターを経験し、「入社1年目から配属希望を出していた」という北京支局へ。中国国内すべての省や自治区を取材し、何と当局に21回も拘束されたという逸話の持ち主です。帰国後は大人気番組『ガイアの夜明け』プロデューサーを経て、現在は異分野であるコンテンツビジネスを舞台に活躍。その飽くなき好奇心、新たな領域に挑戦し続ける意欲の源は、何なのでしょうか。記者時代の「今だからこそ明かせるエピソード」を交えて、じっくり語っていただきました。
思いつきで始めた「シルクロードの一人旅」が 人生を変えるきっかけに
小林さんがジャーナリストを目指したきっかけについて教えてください。
大学時代に、バックパッカーとして一人で世界中を旅していたんです。内戦中のカンボジアや黒人差別が残るアメリカ南部、ケニヤのマサイ族の集落、チベットの鳥葬の現場など、その時代にその土地に行かなければ分からないことを目の当たりにしました。旅先で出会う人や民族、文化、習慣に驚いたり感動したりする中で、自分が現地で見聞きしたことを日本の人たちにも伝えたいなという気持ちが強くなっていったんです。
なぜバックパッカーを?
法学部の学生だったのですが、本気で法律の道に進むならロースクールにも通う必要がありました。そうなると2回生の夏から勉強ずくめになって、そのまま大学生活が終わってしまうかもしれない。当時はまだ海外に行ったことがなかったので、「せっかくなら1カ月の海外貧乏旅行を体験しよう」と思い立ったんです。
行き先は何となくの思いつきで「一人旅といえばシルクロードの砂漠」。当時の自分としては大冒険でした。しかも、旅先で出会ったバックパッカーたちの体験談を聞いているうちに、旅に対する好奇心がどんどん増し、将来に対する考え方が変わっていったんです。 日本に戻る飛行機の中で、「法律の道に進むのはやめよう」と決めていました。その後は、旅を続けたい一心で形だけ「留学」ということにして、北京に14カ月滞在し、そのうちの6カ月は中国各地と東南アジアを旅していました。
報道の道を志したときに挑戦する先はたくさんあったと思うのですが、なぜテレビだったのですか?
もともと私は活字派で、新聞記者になりたいと思っていたんです。その考えが変わったのは1995年1月のこと。中国とロシアの国境の町へ旅した際に見たテレビ報道がきっかけでした。宿のロビーにブラウン管のテレビがあって、そこには、当日の朝に発生したばかりの阪神大震災のニュースが流れていたんです。
中国の放送だったので言葉は分かりませんでしたが、起きていることが映像で伝わり、それを見て衝撃を受けました。当時はネットもなく、日本の新聞や雑誌も頼んでも届くのに数日はかかる状況なのに、起きたことがすぐに世界中どこへでもニュースで届くテレビってすごいと思いましたね。言葉が通じなくても、映像で伝えることができる。自分が伝えたいと思っていたのは、旅先で見たモノの質感や色味、人の表情など、視覚的な要素が強かったので、テレビが合っていると思ったんです。帰国後の就職活動では、新聞社は一切受けずにテレビ局だけを受けました。
殺人事件の取材渦中で受けた 「俺たち、犯人知ってるよ」という電話
実際にテレビ局に入ってみて、いかがでしたか?
実は私はテレビをあまり見ないで育ったんです。でも入社したら、映像で表現する楽しさにハマってしまって。取材、原稿、撮影、編集など、仕事のすべてが楽しかったです。 入社1年目から「現場へ飛べ」と言われて、何も分からないままカメラマンと一緒に行って、カメラマンにいろいろと教えてもらいながら見よう見まねで仕事を覚えました。どちらかと言うとバラエティやドラマの現場はチームプレーで、報道局は個人プレーの要素が強いかもしれませんね。自分にとっては天職に巡り合えた感じで、毎日が楽しかったです。
しかも、テレビ東京の良さというか、手を挙げれば自由にやらせてくれるという雰囲気があります。通常、記者は日々起きるニュースの対応が優先されますが、私はより深く現場を取材してニュースの裏側まで伝えたいという思いが強く、しょっちゅう企画書を出して「特集」という形で発表していました。
ご自身が手掛けた中で、特に反響があった思い出深い企画にはどんなものがありますか?
2年目のときに作った「暴走族怒羅権(ドラゴン)」という番組です。当時は事件記者として暴力団や暴走族を担当していました。怒羅権は、構成メンバー全員が中国残留孤児の2世・3世。戦後、中国に取り残された残留孤児たちに対して、日本政府が帰国させるための支援を行いました。しかし、「帰国させたらおしまい」という感じでアフターケアが疎かだったので、残留孤児たちは日本社会にもなかなか溶け込めず、貧しい生活を送っていたんです。
残留孤児の子どもや孫たちは日本語も満足に話せず、学校でいじめられるわけです。そうやって居場所を失った若者たちによって作られたのが、この暴走族なんです。中国にも日本にも居場所がなく、「ケンカで負けたら存在する意義がない」と思っていた彼らは、関東で最強の暴走族になってしまった。
……。実にハードな取材だと思いますが、どのようにしてその暴走族グループに近づいたのですか?
これは今だからこそ明かせる話ですが、とあるルートから怒羅権の「歴代リーダーリスト」という極秘資料を入手しました。氏名や住所、電話番号などが記載されたデータです。
夜、その中の一人の家に行ってみると、近くの公園で他のメンバー数人とともにたむろしていました。ラーメンをごちそうしながら「テレビ東京の者です」と自己紹介し、企画の背景などを説明して密着取材。10分間の特集を作りました。彼らの暴走や暴力行為は当然批判しつつ、祖父母や親の置かれた状況などを伝えることで、社会にも問題提起をしたんです。
取材対象が誰であろうと、そうやって関係性を築いていくものなんですね。
はい。真摯に向き合えば信頼関係が築けます。すると取材対象から情報源に変わる。彼らは主に東京東部の下町エリアを仕切っていたんですが、その近辺で事件があると、いち早く私に連絡をくれるんですよ(笑)。それで大スクープが取れたこともあります。
1999年に、葛飾区の水元公園で殺人事件が発生しました。取材中に彼らから「俺たち犯人知ってるよ」と電話がかかってきたんです。彼らが協力してくれて、逃走中の犯人と会うことができました。カメラを回しながら「君がやったの?」と聞くと、「はい、2回刺しました」と……。その後、犯人が自首し、警察が記者会見を開いている最中に、テレビ東京は「独占インタビュー」として放送しました。
これ以上は危ないと分かっていても、 「見たい」という好奇心が勝つ
学生時代のエピソードといい、この事件取材のエピソードといい、中国とは縁深いものを感じますね。
初めての海外旅行も中国でしたからね。新疆ウイグル自治区のカシュガルという町から旅を始めたんですが、そこはイスラム教の世界で、ウイグル族、キルギス族、カザフ族などが伝統を守りながら暮らしている。「これが中国なの?」って感じで。列車やバスを乗り継ぎながら上海までたどり着くと、今度は想像していた以上の大都会に驚きました。当時、中国はまだ貧しかったんですが高度成長期に差し掛かり、上海は経済発展するエネルギーに満ちていたんです。1つの国の中にさまざまな世界が存在しているようで、島国の人間としては大陸への興味をかき立てられました。
入社1年目から「北京支局に行きたい」という希望は出していたのですが、さすがに叶わず。それでも、中国ネタは常に意識していました。本格的に中国取材に関わるようになったのは、念願叶って2008年に北京支局特派員となってからです。
近著『騒乱、混乱、波乱! ありえない中国』(集英社新書) では、これまでに中国すべての省・自治区・直轄地・特別行政区を訪れ、「当局に21回拘束された」というエピソードを書かれています。危険を顧みず、果敢に突撃していく小林さんの勇気はどこから来るのでしょうか?
「好奇心の前には恐怖心が消える」というか……。これ以上先に進んだら危ないと分かっていても、見たいという欲求が勝つんです。私たちのような仕事は、結局は「覗き見主義」だと思うんですよ。 一般の人が覗けない社会の課題や問題がある所を私が覗いて、それを伝えるという。ジャーナリストとしての使命感というよりは、「自分が見たいから見る」という好奇心が先にあります。見て、撮ったから、それをしっかり伝えようという感じです。
中国で拘束された中で、最も「やばい」と感じたのはいつでしたか……?
本にも書きましたが、新疆ウイグル自治区で8時間にわたり拘束されたときです。日本国内でもニュースになって、ほとんどの新聞やテレビに私の実名入りで報道されてしまいました。スクープ映像を撮ったテープを持っていたので、それを奪われないようにするための攻防が大変でした。中国当局は基本的に「トラブルの現場をメディアに撮られないようにする」というスタンスなので、警察は現場から記者を排除したいがために拘束するんです。こちらは中国政府公認の記者証を持っているし、違法行為をしているわけではないので、拘束されてもそれほど危険な目に遭うわけではありません。
テクニックのようなものを含めて、映像でニュースを伝えるために大切にしていることはありますか?
自分が見たり聞いたりしたものを、いかに視聴者に分かりやすく伝えるかに尽きます。そして報道なので「事実を正しく伝える」ことが大事です。「映像は嘘をつける」って言いますよね? 確かに撮影や編集のやり方によって、ニュアンスや印象は変わるし、事実だってねじ曲がってしまう。だからこそ、事実が正しく伝わるように撮影・編集しなければならない。
その上で、視聴者に興味をもって見てもらうための工夫も必要です。例えば記者が現場でレポートしますよね。カメラマンを引き連れて歩いていけば、視聴者を現場に誘導する感じになる。直立不動で固定カメラに向かって語れば、メッセージを強く伝えられる。顔のアップがいいのか、周囲の光景も映す方がいいのか……。現場の臨場感を伝えるためにどう撮るか、状況に応じて変えなければなりません。
テレビ局にとっての試練の時代は、 「海外に広がるチャンス」の時代でもある
18年間ずっと報道畑を歩んできた小林さんですが、最近になって「コンテンツビジネス」を担当する部署に異動したと伺いました。これは大きなキャリアチェンジですね。
そうですね。報道局の仕事に未練がないと言えば嘘になりますが、「コンテンツビジネス局に、もっとやりたい仕事がある」と感じるようになりました。
理由の一つは「プロデューサー」という立場になり、なかなか現場に出られなくなってしまったこと。もう一つは、現代におけるテレビ・映像業界の激変です。放送の翌日に出る視聴率を分析すると、50歳以上の視聴者が多い。その層に見ていただいているからこそテレ東は好調なのですが、作り手としてはもどかしさも感じています。
率直に言って、若者のテレビ離れはかなり進行していますよね。
はい。例えば私が担当していた『ガイアの夜明け』ですが、バブル崩壊からの失われた10年が経った2002年に、暗い世相の中で「テレビ局として何かできることはないか?」と考えて始まった番組です。「元気のない日本だけど、また輝けるときが来るんじゃないか」と信じて、各業界で奮闘している人たちがいる。そういう人たちの背中を押すつもりで制作してきたんです。
本当はこの番組は、バブルを知らない20代・30代の人にもっと見てほしいんです。同世代で頑張っている人の姿を伝えることで、若い人たちの活力の源にしたいという思いで作っています。でも実際は中高年層に人気なんです。そこにジレンマがあります。
現状ではテレビを見る年齢層が上がり、若年層のテレビ離れが加速している。とはいえ、テレビ局の将来も考えて、優良なコンテンツを作り続けなければならない。そんな中、私自身はソフト作りからハード作りへ移ることにしたんです。元バックパッカーとしては、新大陸に旅に出る気分ですね。
具体的には今、どのような仕事を手掛けているのですか?
AmazonやNetflix、Huluといったネットでの映像配信会社が最近急成長していますよね。こうした会社とどう連携していくかを考えるのが主な仕事です。彼らは映像を送り出す“プラットフォーム”としては、テレビ局にとってライバルです。ところが、私たちテレビ局は番組を作っている“コンテンツメーカー”でもある。その視点で考えると、彼らはお客さまでもあるんです。彼らは豊富なコンテンツを必要としていますが、歴史が浅いため、自社で制作するノウハウも乏しい。そこで、私たちがコンテンツを供給するという動きが起きています。
今後はどんなことに取り組んでいきたいと考えていますか?
当面力を入れていこうと考えているのは、深夜ドラマ枠の強化です。テレビ東京には『勇者ヨシヒコ』や『孤独のグルメ』などのヒット作を生み出した『ドラマ24』(金曜24時台)という枠があります。さらに現在は金曜25時台と土曜24時台にも深夜ドラマを放送しています。実はこれらの枠は配信会社と組んで制作するというビジネスモデルを取っています。テレビ東京で放送し、かつ配信会社もネットで流す。枠によっては放送よりネット配信が先行します。テレビとネットで話題作りをできるように意識しています。
これまでは限られた局同士の戦いでライバルの少ない世界でしたが、ネットでの配信が始まり、戦国時代に突入しています。テレビ局にとっては試練ですが、逆に言えば、従来は放送地域が限られていたテレ東のコンテンツを世界中どこからでも見てもらえるようになったということでもあります。つまり、国境を越え、海外でも気軽に見てもらえる状況にあります。
それをいかにマネタイズしていくか。例えば、中国や東南アジアなどの配信会社とも企画段階から組み、日本だけでなく海外でも人気が出そうなコンテンツを作る。これまでは日本の視聴者だけをターゲットにしていたわけですから、企画の発想から変えなければいけません。現状、世界のマーケットで戦える日本のコンテンツはアニメだけですが、ここにドラマやバラエティも加えて海外展開できるようにしていきたいと思っています。
ありがとうございます。最後に、読者の方々へ向けてメッセージをお願いします。
映像の世界は激変していて、新しいプレイヤーがどんどん参入してきています。映像コンテンツのマーケット全体としては拡大しています。しかもマルチチャネルの時代となり、さまざまな媒体を使って届けることができるようになりました。
個人で作ったものがSNSで拡散されれば、世界中で見てもらえる可能性もある。クリエイターとしては、大きなチャンスに恵まれた時代だと思います。クリエイターの方々には、コンテンツの強さを武器に世界へ飛び出していくことを意識してほしいです。いつの時代も基本は変わらない。「伝えたい」という思いを強くもって、優良なコンテンツを作る。それに尽きるのではないでしょうか。
取材日:2016年11月18日 ライター: 多田 慎介
小林 史憲(こばやし ふみのり)
株式会社テレビ東京 / プロデューサー 1972年生まれ。1998年に立教大学法学部を卒業後、テレビ東京入社。警視庁記者クラブの事件記者を経て、『ガイアの夜明け』『カンブリア宮殿』のディレクターを担当。2008年~2013年、北京支局特派員として『ワールドビジネスサテライト』の特集などを担当。帰国後は『ガイアの夜明け』プロデューサーを経て、2016年にコンテンツビジネス局へ。番組をネットや海外へと発信するべく奮闘している。著書に『テレビに映る中国の97%は嘘である』(講談社新書)、『騒乱、混乱、波乱! ありえない中国』(集英社新書)。