ベルリンの壁が開いた時〜東ドイツの貧困
10月3日はドイツ統一の日でした。
今年2020年は、東ドイツと西ドイツが統一してから30周年に当たります。
1989年9月に自分は留学のためドイツに渡り、1か月後にベルリンの壁が崩壊しました。
ドイツ人とともに激動の時代をベルリンで経験した者として、統一にまつわる話を記述しておきたいと思っていました。
そこで、今回から3回に渡り、次の観点で当時の様子を振り返ってみたいと思います。
①東ドイツの貧困
②壁が開いた後の「オスタルジー」という現象
③統一の立役者といわれる人物
今回は、①東ドイツの貧困についてです。
ベルリンの壁の崩壊は、東ヨーロッパ圏における社会主義制度の崩壊を端的に表した現象だったと思います。
その発端となったのは、ソビエト連邦共産党の書記長ミハイル・ゴルバチョフが1980年代後半に行った改革・ペレストロイカです。それまで東欧諸国を“支配”していたソ連が、自治権を認めさせるようになったこと。つまりソ連の干渉がなくなったことが、東ドイツを含む東欧諸国市民の民主化運動に火をつけました。
東ドイツ市民は、東欧以外の西側諸国へ旅行の禁止や反政府的言論の禁止など、独裁的な社会主義国会のもと自由を束縛されていました。さらに経済的に破綻した社会主義政府へ民衆の不満が一触即発的に膨らんでいました。
1989年に壁が開いた直後、東ベルリンに足を踏み入れると、そこにはまるで「荒廃した都市」ともいうべき光景が広がっていました。
修繕されていないポロポロの建物、コンクリートが剥き出しになり水たまりができたデコボコの道路、食料品店など店らしい店はなく、電話を持つことができるのは特権階級だけという、東ドイツの貧困状態はショッキングでした。
東ドイツ市民は、壁が開くとトラバント(愛称トラビ)という東独の国産車に乗ってこぞって西ベルリンの町に繰り出してきました。
このトラビを手に入れるために、東ドイツ市民は20年間ほど待たねばならず、子供が生まれるとすぐに予約をすれば、20年後にその子が成人する年齢になると給付されるというのがお決まりだったといいます。
技術やデザインの面で60年代からほぼモデルチェンジが行われなかったおもちゃのようなトラビと、西側の高級車ベンツ、ポルシェ、BMWなどが肩を並べて走る光景は、同じ民族でありながらこんなにも隔たってしまった東と西の深い溝を見るようで、その分断を埋める道のりをおもんばからずにはいられませんでした。
実際に、統一後のドイツにはさまざまな問題が生じる訳ですが、その中のひとつの現象「オスタルギー」について次回は紹介します。