職種その他2020.10.27

ベルリンの壁が開いた時〜東ドイツへの懐古〜

東京
編集ライター
海外暮らしと帰国してから
Joshy

 2020年10月3日のドイツ統一の日30周年にちなんで、前回ベルリンの壁が開いた時〜東ドイツの貧困〜では、東ドイツと西ドイツが合併した時の様子について伝えました。

 今回は統一後に起こった「オスタルギー」という現象について紹介します。

 オスタルギーという言葉は、ドイツ語のOst(東)とNostalgie(郷愁)を掛け合わせた造語で、東ドイツ人が40年間存在した東ドイツを懐かしむことを表します。
 2003年に公開された「グッバイ、レーニン!」や「ゴー・トラビ・ゴー」(1990年製作)などは、オスタルギーをテーマとした映画で、「グッバイ、レーニン!」は日本でもヒットしたので憶えている人もいるかと思います。

 オスタルギーがなぜ起こったかというと、1990年の東西ドイツの合併が実質上、東ドイツが西ドイツに吸収された形だったからです。社会主義国家だったドイツ民主共和国(東ドイツ)は亡くなり、東ドイツは政治・社会・文化などあらゆる面において西化(民主主義化と資本主義化)を余儀なくされました。

 それは経済低迷や独裁政権下にあった東ドイツ人の多くが望んだことではあったけれど、今まで親しんだ習慣からまったく違う社会に適応していくのは簡単なことではありませんでした。
 おまけに、当時の西ドイツ人は東ドイツ人のことを、露骨に上から目線でみていました。失敗した国家=劣った民族であるという訳です。オスタルギーはそういった中、「自分たちが生きていきた東ドイツはそんなに悪くなかった」と、東ドイツの人が失ってしまった自信とアイデンティティを取り戻す現象だったのです。

 壁が開く前の東ドイツの社会は、個人主義がゆきとどいた西ドイツに比べて協調性のある社会だったといいます。前回の記事で書いたように、電話を持っている人はほとんどいなかったので、約束なしに訪問し合うのが当たり前だったし、働いているシングル・マザー(ファーザー)の育児をコミュニティ内で助けあうなど、人と人の絆が重要な役割を担っていたようです。
 
 ベルリンでライターをしていた時、自分は東ドイツのカメラマンとも仕事をしていて、そういったあまり知られていない東ドイツ社会の「温かさ」のような面に触れる機会がありました。
 
 東独時代にグラフィックデザイナーとして活躍していた夫妻のお宅(インテリアデザイン)を取材をさせてもらった時のことです。お昼近い時間に取材が終わると、その夫妻はカメラマンと自分にお昼ご飯を用意してくれていました。
 取材中にこのようなおもてなしをするのは、プライベートと仕事をきっちりと分ける西ドイツ人にはほとんどないことです。スープとパンという質素だけど真心のこもった食事に自分が感激していると、東ベルリンで育ったカメラマン女史は「これが東ドイツでは普通だったのよ」と自慢げに微笑みました。

 冒頭写真の「アンペルマン」という名前の東ドイツの信号機は、オスタルギーの象徴ともいえる東独デザインです。
 青信号では、帽子をかぶったアンペルマンがgo!とばかりに歩くポーズをするこのかわいい信号機は、1960年代に東ドイツの交通心理学者によって、子供にも分かりやすいようにデザインされました。

 統一後、東ドイツ製品が次々と消えていくのと同じように、アンペルマンも西ドイツの信号機に置き換えられていきます。しかし、この愛すべき信号機が失われていくことを嘆いたベルリン市民が「アンペルマンを救え!」という撲滅反対運動を起こし、アンペルマンをロゴとしたキャップやTシャルなどが作り出されました。

 結果、アンペルマンはベルリン州の正式制定歩行者信号機となり、今でもベルリンの町で交通安全のために活躍しています。

 この反対運動で特筆すべきは、東と西の両方のベルリン市民が立ち上がり、東西の隔たりなく共にアンペルマンを救ったという点です。
 東ドイツと西ドイツがひとつになる過程でさまざまなことがあり、爪痕も残したけれど、ふたつの民族の橋渡しをしたアンペルマンこそが、東西ドイツ統一の平和のシンボルではないかなと自分は思うのです。

プロフィール
編集ライター
Joshy
ヨーロッパに20年間滞在し、日本のメディアに情報を発信してきました。海外生活で経験したこと、帰国して感じたことを綴っています。

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