無人のATMにカバンを置き忘れて考えた
その日はとても疲れていた。急ぎの仕事を半徹でこなし、そのまま別の仕事先へ。寝ていないので身も心もボロボロだった。
早く家に帰り、シャワーを浴びて眠ってしまおう。そう思っていたのだが、なんやかんやで自宅の最寄駅に着いたのは午後6時前。いきなり晩秋となって、もう暗くなっていた。銀行の無人ATMコーナーの前を通りかかった時、突然のように現金を引き出す必要があったことを思い出した。現金を引き出し、コンビニで公共料金の支払いを済ませ、やっと家に帰り着いた。
待ちわびていたようにすり寄ってくる猫にさっとブラッシングをしてやり、そのままシャワーへ。やっと人心地がついた思い出バスルームを出て、一服しながらアイスのチョコバーを味わっていた時、ふと仕事のことが頭をよぎった。念のため資料を確認しよう。そう思い立ちいつもカバンを置いている玄関先に行った。しかし、カバンはいつもの場所にはなかった。
おかしいなと思いながら家中を探すもどこにもない。落ち着こうと思い、バスルームに戻ってタバコに火を付けた。その時、衝撃の事実に気がついてしまった。そもそも僕はカバンを家に持って帰っていなかった。どこかに置き忘れたのだ。慌てて服を着て、家から飛び出した。目指すはさっき現金を引き出した駅前の無人のATMコーナー。さっきとは言ったものの、すでに1時間は経っている。もうないかもしれない。誰かに持ち去られているに違いない。もしそうなっていたら……。焦りながら走った。なんどか躓き転びそうになりながらATMコーナーのぼんやりした灯りを目指して駆けた……
「あった!」思わず心の中で叫んでいた。現金を引き出したATMマシンになだれかかるように僕のカバンはそこに存在していた!
まるで人のものを盗むかのように、周りを見渡し、慌てながらカバンを掴み、逃げるようにATMコーナーから飛び出した。10メートルほどで走るのを止め、しみじみとカバンを見た。その時、20代の頃、初めての海外取材でエジプトに行った時のことを突然思い出した。
まだバブルの時代だった。飛行機もホテルも全てそれなりのランクを出版社が手配してくれていた。最初に到着したのはカイロの国際空港。迎えの車も予約しておいたからという話だった。荷物を受け取り到着ロビーに出ると、ローマ字で僕の名前を書いたボードを持った運転手と思われるエジプト人が立っていた。運転手がパリッとした制服を身につけていたのもびっくりだったが、驚いたのはその後。なんと迎えに来ていたのは真っ白で巨大なリムジンだった。それから数日、僕は若造ながらその運転手付きのリムジンでカイロの観光名所の写真を撮って回った。
次の目的地であるアレキサンドリアに明日発つという日、僕は世話になった運転手に、明日で最後になるから、送ってもらった後に空港内のレストランで食事をご馳走すると申し出た。すると運転手は自分の家族も連れて来ていいかというので、快くOKした。好きに使えと出版社からキャッシュで5000ドルもらっていたので、気持ちが大きくなっていた。
翌日朝、ホテルに迎えに来たリムジンで空港についた。運転手が言うにはもう家族は来ていてレストランで待っているという。運転手に先導されてレストランに入った。「僕のファミリーです」彼が笑顔で指し示した別室には、30人ほどのエジプト人の老若男女がいて、すでにサーブされた大量の料理を貪り喰っていた。僕の存在に気づいた何人かは愛想笑いを返してきたが、大半の者たちはここぞとばかりひたすら料理を口に運んでいる。
当然30人分のレストランの支払いは僕の役目だった。おそらく運転手は僕がたかれるほどの金持ちだと勘違いしたのだろう。
そんな過去を思い出し、僕は深い安堵のため息をついた。1時間も放置していたのに、誰も盗まないなんて……やっぱり日本はいい国だ。無人のATMにカバンを置き忘れた結果、そう考えた。