クリエイター天国ベルリン②
ポルシェのように、遠目から見てもすぐに分かるデザインはどうして生まれるのか?
この質問に、BMW社のデザイン部で働いていたある日本人のデザイナーの方は、「自分がいいと思うデザインを製品化まで貫き通すことができる。そんなドイツの個人主義の環境が大きい」と答えてくれました。
個人主義とは、「ひとりひとりの個性を認め、尊重する」というドイツ社会の根底をなす考えだと思います。
ドイツに暮らしていた時、「何しに来たの?」と本当によく聞かれたました。例えば、「アイドルになりたい」と答えたとします。それがどんなに“変わったこと”であっても、「いいボイストレーナー知ってるよ」と言ってくれるような懐の広さが、20年間住んだ街ベルリンにはありました。たとえその時点では実現できていなくても、自分のやりたいことや夢があるならば、それを尊重し、まわりがサポートしてくれる。そんなこの街の気質が、自分をクリエイターとして育ててくれたと思っています。
90年代までのベルリンは、ドイツの都市の中でも物価や家賃が安く、アーティストが売れていなくてもアトリエを持つのが難しくなかったし、ベルリン州からの文化施設やアーティストへの援助もあった、いい時代でした。
当時ベルリン市長だったボーベライト氏が放った言葉「ベルリンは貧乏だけど、セクシー」は、流行語大賞になったほどで、まさにベルリンを上手くいい表しています。
「お金がないなら、自分たちで作ればいい」という、荒削りなオリジナリティ。それはアートシーンだけでなく、ベルリン子の日常的な姿勢そのものだったように思います。
ちなみにボーベライトは、ドイツの政治家で初めてゲイとしてカミングアウトし、当選を果たした人です。ウチのアパートの下に住んでいたおばあちゃんは、彼のことを「いい仕事さえしてくれれば、セクシャリティは関係ないでしょ〜」と言っていましたが、こんなマイノリティーの街らしい寛容さも好きでした。
壁が開いた直後の“無政府地帯”の東ベルリンには、管理者不明の空きアパートがいくつもあって、友達のアーティストたちが無断で住んでいました。そういった「不法住居」で、名の知れたDJが音楽を流すと、口コミで広がります。いわゆる違法の即興クラブなのですが、警察が見回りに来る危険と隣り合わせで、外で見張っている子が「警察だ!」と知らせてくれると、一瞬にしてパッと散るんです。みんな逃げ足が早かった(笑)
ラブ・パレードなど、ベルリンでテクノ音楽の火が付きはじめた頃のことです。