「草書」と「隷書」は近い関係

東京
書道家・ライター
Tohku
桃空

 ひさしぶりに書道の教室を開こうと思い、自分の研究のことなど振り返りながら書いています。

 わたしが主にいま読んでいるのは『石川九楊自伝図録 ―わが書を語る』。「主に」と書いたのは、いくつかの本を常に並行して読んでいるからなのですが、この本はわたしの書の実践に役立つことが多く書かれていました。

 すでにいくつかの大きな書道作品は制作しているものの、臨書や基本をかなり忠実にこなしてきた作家にとって、そこから一歩外側に踏み出すことというのは頭でわかっていても、非常に難しいことです。

 そんななかでこの人の言葉は「書道史」や「書道界」を冷静にみつめていることを感じます。それは温かくもあり、厳しくもあります。書作品の見方は、最初は誰もがわからない、けれども自分がある程度訓練できれば、実際目の前にある作品に手をかざしてみて辿ってみるとその良し悪しもわかるようになる、ということです。

 例えば隷書のなかにみられる波磔(波のような筆画)の「筆画の収筆で抑え込んで右上に跳ね上げる筆触の快感」表現は、それ以前の篆書には見られない風景だったというのです。この波磔という、筆を対象に押し当てて開くようにした肥痩の落差による横画の筆圧深度の強調について、石川は「規範ならざる書きぶりの表現を楽しんでいるように思える」と述べています。

一方、「草書」は書く速度による身体性の発見だというのです。波磔をなびかせた八分体(はっぷんたい)の完成された字形を持つ隷書と比較して、一見それとは全く違う規範のもとで書かれたかのような草書とは「同根の書体」だと石川は書いています。隷書は、文字の連なりのなかで横画の反復運動によるリズムが拡大され「完成しきった書体」であって、草書は速度が高まり筆画の省略が起こり「完成目前に横滑りした形の隷書」といえるということでした。

 ここで注意しなければならないのは、草書はあくまで速度優先の「書く」書体で「(隷書の)字画が結果的に省略されただけ」なのです。(隷書の)規範と異なる文字を書こうとしたわけではないということなのです。わたしはこのことに驚愕しました。隷書と草書の関係はこのように「近い」関係だと思っていなかったからです。そして草書について石川は「一見して規範のない草書体に思われるが、実際は手の抜けない書体である」と述べています。

 書には「五體(たい)」と言われる書体があります。日本の初等教育の「習字」の時間のなかだけではなく自己の意思で続ける「書道」のなかで出合うのは、行書、草書、楷書、隷書、篆書(五體)が一般的です。また書道史ではこれら五體が登場した年代は大まかに教えられるのですが、細かな情報は省かれます。なので、大まかな流れを知ったままではなく、それ以降の「各自の調査」をなくして「単なるお習字の先生」から脱することはできません。

 「書道」とは、見えない過去の道を探り、自分の独自の世界を切り拓くこと。そのうえで、終わらない道をどんなに険しくても向かっていく、そういうことなのかもしれないなぁと、この著書を読んで深く頷いてしまったところです。

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春に行った展覧会のポスターは石川九楊の作品だった。

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ちらっと。

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