「倭王 卑弥呼」から「政治空間の女性」の歴史を見る @国立歴史民俗博物館

東京
書道家・ライター
Tohku
桃空

 

 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で開催中の『性差の日本史』展覧会に友人と二人で行ってきました。Covid19流行によって行動の制約や、環境の変化にともなう工夫が強いられる2020年となり、その大半は「誰かに会う」ことが貴重となりました。

 友人と味噌をつくったり、みんなでわいわい料理する、季節をたのしむ会合も遠慮していました。春や初夏の登山も、季節の自然を満喫する時間の共有も、できずにいました。そういうなか、11月にして久しぶりに顔を合わし、笑う、議論するなどの貴重な時間を過ごせました。

 すでに10月頭のオープンから話題で、という荻上チキ「Session」(TBS Radio)で内容紹介していただけに楽しみにしていた展覧会です。冒頭展示では、織物をする人を模したものを含めた何体かの埴輪が並んでいます。

 展示説明も豊富で読みどころが多く、あっという間に時間が経ってしまいました。日本は「日本」と呼ばれる以前には、女性が首長である時代がありました。稲作や織物、職人など、都度の政治や制度の背景とともに、女性はいわゆる表立った「職業」から遠ざかって行きます。展示では、神の存在や、輸入された宗教などにも影響うけ、あらゆる生活のしきたりや風潮によった変遷がわかる仕組みとなっていました。

 まず、男女という人間の性を二つに仕分けするだけでは済まされない世界の流れは、現代になってからである、ということではなかったのではないかということをまず考えさせてくれます。

 実際のところ、遡っていくと「人間」と「それ以外のもの」という区分が自然のなかでは起こっていて、実際には「人間の種類」でわけるほど、他の種との接触がなかったともいえます。他のコミュニティや民族、文化圏の違う者との接触によって、内側と外側を意識するという内的行動が起こってきたともいえます。

 Covid19の流行とともに普及した「透明な壁」は、店内で食事をする隣人との境目に置かれていますが、人々の内的な動きにも影響し、世界のあらゆる「節(ふし)」に置かれているような気がしてなりません。

 展示の後半は近代の流れになりましたが、いかに女性が「男性の所有化」になっていたのかを見せつけられるもので、少々息詰まる感覚に襲われました。

 しかし、前半の流れの意味深さが強く印象づいていたため「知っておかねばならない」「二度と繰り返すことがあってはならない」と思いました。

 すべての事項に、目をそむけるほどの反省があると思います。自分の過去を振り返っても反省だらけです(苦笑)。日本の歴史の反省は、他の国、民族への弾圧など数多くあります。それに対し「見て見ぬ振り」はできないはずです。見なかったことにするということは「反省しない」ということと同じ意味になってしまう。

 わたしたち日本が、ずっと愛すべき国であることを目指すならば、やはり誰かを虐げた歴史や、制度によって間違えてしまった歴史を「自覚」し「反省」の受け止めが必要であることをこの展覧会は全体を通し、誰もが理解できるよう、丁寧に説明しているように思いました。

 この「透明な壁」があらゆる場面にあることを忘れず、わたしたちはそれぞれに「心のなかにある壁」を壊していくのが必要です。ネット上でも分断を呼び寄せる言葉が多く使われています。これは政治の中心に在る人々の「言葉の崩壊」が呼び水となっていることは間違いないと見ています。

 もし自分の周りでできることがあるとするならば「少しでも相手の身になって言葉を使えるように行動すること」なのではないかと思います。質問に対して、何を求められているのか、それを考えるのは簡単なことではないと思います。

 わたし自身もいつも日本語を間違えてしまいます。「書」や「文字」について研究しているにも関わらず、わたしは間違えてばかりでいやになります。まだまだ勉強が不足していると認識した展覧会でもありました。

 これから行かれることを考えている方は「図録」が分厚く、情報量が多くて素晴らしいので、ぜひ買われてお家でじっくり読まれることをおすすめします!

拡大

拡大

拡大

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP