「意味」を考える
先日、ニュース番組の中で「コロナ禍の取り組みで意味があるのか疑問なもの」という特集を見かけました。
議論の始めに出てきたのは、公共のトイレに設置されているハンドドライヤーの利用停止について。
・洗い終わった手を乾燥させるのだから飛沫にそこまで恐れる必要がないのでは?
・アメリカやイギリスではむしろがガイドラインでハンドドライヤーの使用を推奨している
といった意見から、日本政府も利用停止について見直しをしている最中とのこと。
他国が推奨するなら問題ないのではとぼんやり思ったその後、コメンテーターの1人が「欧米にはハンドドライヤーを製造する大手メーカーがたくさんあるから一概には言えない」と一言。
こういう多角的な視点を持っている方がコメンテーターに適しているのだなと、妙な関心を覚えた朝でした。
そして、「意味があるのかないのか」。
様々な物事に対し、これについて考えることはついつい雑になりがちだなと気付きました。
何故そうなるかというと、「考えなくても、意味がなくても今までなんとなく生きていけているから」。
これに尽きるのではと思います。
それでは、これが「創作」の世界だとどうでしょうか。
やはり「意味がない文章」は、テンポが悪くなるだけでかなり不必要ではと思います。
ただし、なんでも「意味がない文章だから」と切り捨てるだけでは面白さに欠けるのかもしれません。
・サンタクロースはトナカイとはぐれた。仕方がないので徒歩で向かった。
という文章と、
・サンタクロースはトナカイとはぐれて、ポケットをまさぐった。仕方がないので徒歩で向かった。
という文章があったとしたら、意味がわからなくともなんとなく「余韻が残る」のは後者ではないでしょうか。
意味のある方が圧倒的に正しいし、意味のないことに惑わされるのも、それはそれで楽しい。
日々の生活ってそういうことをいうのかなという、無理矢理な結論で終わります(笑)。