忘れられない日から26年。
昨日、1月17日は、「阪神大震災」が起きた日です。
あれから26年も経ったのですね。
阪神間に暮らし、まともにあの大震災で被災した私にとっては、
忘れられない日です。
年々、テレビなどのメディアで
阪神大震災の報道がぐっと減った気がします。
今年は、新型コロナウイルスの影響で追悼行事なども縮小されました。
追悼行事で竹灯籠を並べて文字をつくっている実行委員会は、多くの応募の中から今年の言葉に「がんばろう」を選んだそうです。
震災復興の合言葉だった「がんばろう神戸」を再び掲げ、コロナの終息も願いたい。
あの日から、もう26年も経ったなんて… 本当に信じられません
そう…1995年1月17日午前5時46分、
淡路島北淡町野島断層を震源とする
マグニチュード7.3の大地震が起こりました。
甚大な被害をもたらし、
淡路島、神戸市、西宮市、芦屋市などは
震度7の烈しい揺れに見舞われ、 死者6,434人、重軽傷者43,792人
という悲劇に。
当時、大学生だった私も被災しました。
しかし、生き延びることができたのです…
「まだ生きなさい」と、
命をいただいたと感謝しています。
家の前の電柱は倒れ、駅は破壊、電車は脱線、
すぐ近くの大きな歩道橋は見事に落ちていました。
あちらこちらの家屋が壊れている中、
本当に幸運にも、私と家族…
そして私たちが暮らすマンションは、無事でした。
ありがたい…としかいいようがありません。
建物が無事でしたので、避難所には行きませんでしたが、
ライフラインがまったく閉ざされた中、
水の調達をしなければいけないのは、本当に大変なこと。
震災のあった日から三ヶ月間
水とガスが使用できない日々が続きました。
近代的なマンションで水とガスがストップすれば、
そこは単なる器にしか過ぎません。
もちろん、お風呂やおトイレは、使用できません。
電気は付いたのですが、限界がありました。
震災を境に私のライフスタイルや価値観は
大きく変わることに。
大阪から東は、ほぼ何の被害もなく、
通常の生活をしている中、京都の大学に通っていた私は
しばらく通学ができなくなります。
それどころではなくなりました。
基本的な暮らしを維持するために、
大量の水を父と確保し、同じマンションやご近所さんにお配りするのが
毎日のミッションとなりました。
父とお水を調達するために隣町に行くのが日課。
そして戻って、ご近所に配布する…
特に苦労したのがおトイレです。水洗なのに流せないので
特別な処理が必要でした。
お風呂はお風呂屋さんに…といっても、
どこもお水が出ないので、遠方しか営業できるお風呂屋さんがありません。
毎日、遠方まで行けないので、
「お風呂に毎日入れた日常」の幸せを改めて恋しく感じました。
やっとお水とガスが復旧したのが三ヶ月後…
身も心もクタクタでした。
しかし、命があることに感謝の気持ちでいっぱいです。
当時はまだ祖母も生きていました。
震災時の高齢者への対応は、今尚、課題でしょう。
今年も6434人の貴い命に祈りを捧げたいと思います。
震災でご両親やお子さん、ご家族を亡くされた方々…
取り残された方々にとっては、悲しみは、生涯、消えることはないでしょう。
私にできることは、阪神大震災が淡路島、神戸、阪神間だけの
部分的な地方の過去の災害だったと、終わらせないで
このまま風化させることなく、語り継ぐこと。
なぜなら26年も経つのに、失業や自宅再建のための二重ローンなど
借金を背負ったことで人生の再建ができなかった方がいます。
うまく復興できなかった人や街があります。
災害復興住宅に引越したため、これまでの人間関係がなくなり
環境が変わり、孤独死が増えている地域があります。
さらに「災害復興資金」という聞こえの良い資金は、
結局のところ、被災者にとっては借金を抱えることになりました。
被災者は、今では高齢化し、少額の国民年金から
26年経った今も、借金を返済しているのです。
一部の人は免除されているようですが、法人で借りた人は死ぬまで返す運命。
このような、報道されにくい、知られにくい震災の傷跡や現状を
これからも追跡し、発信していきたいと思います。
私は、たまたま命拾いしましたが、
いただいた命を大切に、感謝の気持ちを忘れず
ささやかですが私にできることを行っていきます。
災害は 、いつ起きるかわかりません。
防災について、日頃から気を配り、室内が
ちゃんと転倒防止されているか、飲料水や食品の備蓄など、
皆さんもチェックしてくださいね。