久しぶりの東京都現代美術館へ

東京
書道家・ライター
Thoku
桃空

 『ドローイングの可能性』という展示と『オラファー・エリアソン ときに川は橋となる』を観てきました。

石川九楊を目的としていましたが、マティスのドローイングが非常に素晴らしくその色彩感覚にあらためて感銘を受けました。

 石川九楊の作品は社会問題をドローイングのなかに取り込み、言葉が平面のなかでリゾームのように見えました。

リゾームとは哲学者ドゥルーズの用語ですが、根っこを意味します。石川の文字が生き物のように絡み合って見えるのです。文字は文字という形態をこえて幾何学的な模様にも見えるし、記号化したかのようにも見える。結局、石川にしか読めない「文字」のようです。

しかし「文字」のそもそもは誰かに何かを伝える、記録の役割があるはずです。同じ規格の紙の表面には細い面相筆のようなもので引っ掻いたような痕を遺しています。非常に興味深い作品群でした。

他の出展の人の作品はそれほど期待していませんでしたが、なかでも素晴らしかったのはマティスの作品群でした。マティスの切り絵は人によく知られていて、カラフルで、ずば抜けた色彩感覚によって描かれていて、誰もが一度は見かけているでしょう。

しかし、彼のドローイングはどうでしょうか。ただクレパスやクレヨンや、色つきのインクで文字や絵が描かれているのですが、やはりその線質の素晴らしさが手にとるようにわかりました。これはやはり天性のセンスとしか思えませんでした。

一方の展覧会オラファー・エリアソンの作品は、まさに今の現代芸術作家であり、その注目度は高いのですが、虹や振動、光の組み合わせをテクノロジーとまで行かない程度のアナログな手法を用いて演出している、その加減が絶妙だと感じました。

テクノロジーだけではもはや面白みがないと人々は感じているでしょう。そして、そこに人間のぬくもりのような、自然のぬくもり、あるいは機械の機械らしくないぬくもりのようなもの、誤差、というものを求めて展示しているようでした。正直、前半の展示物には、それほど響きませんでした。しかし月の光のなかにいるような最後の展示がとても興味深く、2度観にいきました。

 久しぶりに美術館に行けたというのもありますが、芸術が自分にはやはり必要だと実感しました。

もしそこにあるものが何も語らなくても、あるいは逆に押し付けるまでのパワフルな作品があっても、自分自身と対話できるチャンスがあるからです。

きっと、人は、芸術を観ることを止めない、そう確信した時間でした。

 

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