「トッケビ」と「死神」
家にいる時間と、ときどき近所にお散歩がてら食品を買いにでることが楽しみになります。それから週末はサイクリング。ひとの少ない場所へ行くくらいでしょうか。
どうしても室内で楽しむとしたら、私の場合は読書と映画(もっぱらNetflixですが)かな。おかげさまで体重は少し増えました(汗)。
ということで、わたしは引き続き韓国ドラマにハマっています。今回観たのは『トッケビ』でした。この作品はメインキャストの、トッケビ(鬼)のコン・ユの演技でしょうか。彼は他の俳優さんとは少し違った雰囲気を持っていました。特にトッケビは人間にない能力があるわけですから、その「違う雰囲気」を演出上も出さねばならないという意味で、「死神」というキャラクターのイ・ドンウク、「トッケビの花嫁」キム・ゴウンも含めそれぞれキャスティングに成功していたと思います。
さて、コン・ユの主演作では、少し前に映画『新感線』を観ていました。パニック映画のジャンルでありながら、ある意味ゾンビ映画というジャンルでもあります。この映画のゾンビは驚異的に、恐ろしく走るのが早いゾンビでしたね。
一時期ゾンビが流行った時代がありましたが、考えてみたら新型コロナウィルス時代の前でした。ロングランシーズンの『ウォーキング・デッド』はゾンビ映画の代表作だったのではないでしょうか。しかし今は「ゾンビ」はある意味タブ―視されている気がします。感染することがゾンビになるわけではないのが現実の世界、のはずですが、いまは感染して完治しても、元患者の人に対して「差別」がつきまとうという話を目にすることが多くなりました。一方で、うっかりSNSで発言されているようですが「優勢思想」というのも、同じことですね。優秀な人や才能のある人を区別することは、逆に「底辺」という言葉を使う人たちです。私たちはそれも見張り、決定的に議論の場には受けつけない態度を持っていなければ、未来の平和は望めません。
感染が「差別」を生むのは、一時期の公の人たちが使っていた語彙「夜の街」にも見られるようなきがします。専門家が言っているとおり「ウィルスには24時間営業なのに」ということが、理解されていなかったということでしょう。
言葉は、場面を間違えると大変なことを呼び寄せることもあります。なんだか信じられない差別的な言葉にもなる。そして、誰かを決定的に傷つけるような刃にもなるということ。余裕のないこのような状況の心のスキマに入り込むようなものになりかねない。これもまたウィルスのように心に染み込んだら増幅してしまう可能性があります。
こんな、大変なときだからこそ、誰かに優しくなれるように、誰かが元気になれるように、効きめのある言葉を使えるようになれたらいいな、そんなふうに自分に対していつも思っています。