『僕らの先にある道』の「道」とは
自宅にこもってばかりでついついドラマ(最近は韓国ドラマ)を連日見ている私だが、この映画は観終わったのちにじわじわと心に滲みる作品なので紹介したい、と筆をとる。
この映画の監督は、劉若英(Rene Liu、レネ・リウ)。彼女は台北の女優・歌手でもある。
実は彼女の名前は去年知った。ここまで素晴らしい映画監督なのだということは知らなかった。ある講義に出席して知ったのだが、そこで登壇していた教授は台湾の話をしていて彼女の名前を出していたが、すでにこの映画を観ていたに違いない。調べてみたら公開は本土と台湾では2018年4月末だったということがわかった。
映画自体は中国の舞台で、その興行は中華人民共和国になる(この時代にこういうことを考えるとなんとも言えない複雑な気持ちになってしまう)。若い二人の俳優はふたりとも中国人である。中国の田舎の子たちが正月に都会と行ったり来たりする話で、北京のどちらかが主なシーンとなる。
物語は首都、北京に向う電車の出会いのシーンから始まる。ジエンチエンとシャオシャオの恋物語になる、のだが、それだけでは終わらない。この映画の良さはもっと深いところにあって「人はなぜ誰かの子どもなのだろう」「親はどうして子どもに幸せになってと願うのだろう」「人はなぜ死ぬのだろう」「生きているということはなんてつらいのだろう」「他人との距離は近いのか遠いのか」「誰かを愛するってどういうことなのだろう」などというようなシンプルな問いが寄せては返す波となって、いつのまにかさらわれてしまう、というような気持ちになってしまう映画だ。
こうした問いというものは普段だって出てくることがあるだろう。例えば私は父との別れ。これは人が「生」を与えられたからにはいつかやってくるという別れなのだから仕方がない。けれども、それを実感するとなると「会えなくなる日がくることに気づいていたのに、なぜ自分はこんなに愚かだったのだろう。親孝行がもっとしたかった」などと愚かな思いが湧いてきてしまうものだ。ジェンチエンの父の存在は、中国の寒い地方の雪深くに埋もれている春の息吹のようなものだ。
私たちは「生きるために食べている」。それは自然なことのようでいて、とてもとても大切なことだ。その大切さを分かち合える人、その大切さを一緒にかみしめられる時間、そういったことを意識せずに私たちはただ生の時に身を委ねていることがある。意識的に常に見つめているわけではない。だけれども、ときには「食べ物を見つめる」ことや「食べ物を囲む人々がどんな顔をしているか」を気にしてみることをすることで、思わぬ大きな大きな愛を感じられることがある。そういったことができるのも人間なのかもしれない。