「原稿どおり」をめぐる混乱 解決の切り札は何か ~連載「組版夜話」第5話~
20年ほど前のパソコン導入から普及の時期、 「パソコンで、 自分の使いたい字体が出ない」 と、 日本文芸家協会をはじめとする人々が大いに騒ぎ、 「文字コード問題」 (1997-98年) として社会問題になった。 「牡蠣」 が 「牡蛎」 に化けるとか、 明治の文豪、 森鷗外の 「鷗」 の字が 「鴎」 しか出ないとか、 非難の矛先はパソコンやJIS漢字規格に向けられた。 彼らは、 「原稿のままであること」、 つまり作者の意図を盾に正しさを主張したが、 当の森林太郎 (鷗外) 自身、 鷗外以前の雅号のひとつ 「鷗波居士」 の 「鷗」 を 「鴎」 字体で書いている 〔図1、 JIS X 0208 附属書7 区点位置詳説〕。 「鴎」 と 「鷗」 は字形が異なっていても、 決して “別の文字” ではなく、 手書きの 「鴎」 が印刷文字では 「鷗」 に置き換わるのことは、 当時の社会的な理解と合意だった。 これを 「渡り」 といい、 「包摂」 という。 この社会的な合意が衰微し、 漢字を渡れぬ人々の無理解が、 消費者迎合の時代になって不満として噴き出したのが、 先の文字コード問題だった。
それまで 「鷗外」 が一般的だったのは、 作者の意図というよりも活版印刷という技術において手書きで入稿された原稿が 「鴎」 であれ 「鷗」 であれ 「鷗」 という字形 (活字) に置き換えられてきたからである。 置き換えは印刷工の権限であり、 不満を言う書き手は恐らくいなかった。 時代が変わり技術が変わると合意も変わる。 彼らの主張した 「正しさ」 は決して絶対不変のものでは無く、 20年前のパソコンでは鷗ではなく鴎が統一の役目を担ったというに過ぎない。 文字の形が変わっても、 「渡り」 という前提は何一つ変わらないはずだった。
字体は書く道具、 つまり技術の変化に影響を受ける。 手書き (楷書と行書、 草書) と印刷字形との区別だけでなく、 孔版 (ガリ版) やタイプ印刷、 活版、 写植という技術のちがいによって決定づけられる (たとえば孔版では原紙が切れぬため略体を工夫したが、 草書体に示唆を得た字形もあった、 図2参照)。 字体字形についての技術史的な理解がなければ、 時代を超えて 「渡る」 翻刻はできない。
「原稿どおり」 が第一なら、 写真撮りをそのまま印刷すればいいという話になる。 筆で書く習慣が今ほど廃っていなかった頃は、 四画くさかんむりは、 「筆写の楷書体ではありだが、 印刷の明朝体では無し」 が社会的な常識だった。 読みやすい文字で写植時代をリードしたメーカー写研は、 橋本和夫さんが監修していた時期は四画くさかんむりの明朝体は拵えなかったが、 後には部分字形として文字盤に入れてしまった。 また、 映画のタイトルは、 手書きの筆文字が多かったが、 これを翻刻するというので、 明朝体で山ほど作字して笑いものになったプロジェクトもあった。 消費者に要求されるままに、 些細な違いごとに字体字形が次々とつくられ、 文字は拡散していった。
使える字体字形は増え続け、 活版期には1万だったものが、 今では2万3,000 (Adobe-Japan1-6) から18万余 (超漢字) にものぼる。 はたしてこれほど多くの漢字を、 われわれは使いこなせるのだろうか。 便利さよりむしろ無用な混乱を私は感じてしまう。 文字と組版の現場が、 消費者エゴを前に 「そんな文字はない」 と言い切れる自信を喪失してしまった今、 その打開策となり得るのが、 〈常用漢字は常用漢字表に揃え、 表外漢字は表外漢字字体表・印刷標準漢字字体表に揃える〉 という社会的合意であろう。 だが、それさえ知らない編集者、 校正者、 印刷関係者は驚くほどに多い。 事実、 本を開けば目を覆いたくなる混乱ぶりだ。 これほどの混乱の一因は、 消費者の野放図な欲望にある。 だが何よりの原因は、 印刷、 組版にかかわる者が、 かつて持っていた文字についての体系的な見識、 誇りを失ってしまったことにあるのではないか。
印刷とは公に発信することである。 私信を社会化するなかで、 文字は誰もが共通して理解できる記号となって、 書き手から読者へ渡される。 文字を、 本来の伝達と表現の体系として理解し、 生きるための言葉を必要としている人々の手に取り戻すことが急務である。
【参考】拙稿「“工業に立ち向かう文化” という幻想 「JIS批判」 翼賛体制は 如何にして成立したのか?」 〔『ユリイカ』 1998年5月号、 pp.262-277〕
※ 文字コード問題については、 9年後の歴史的総括として小形克宏さんがまとめた「JIS X 0213の改正と「漢字を救え!」キャンペーン」(INTERNET Watch, 2006/02/14)を参照。
連載「組版夜話」もくじ
- 第1話 千遍一律なルールという思い込みの罠 2020.7.11
- 第2話 和文組版は“日本語の組版”ではない!? 2020.7.30
- 第3話 小ワザをいくら積み上げても砂上の楼閣 2020.8.11
- 第4話 ベタ組みは和文組版の基礎リズムである 2020.8.30
- 第5話 「原稿どおり」をめぐる混乱 解決の切り札は何か 2020.9.11
- 第6話 ルビ組版を考える(上) 2020.9.30
- 第7話 ルビ組版を考える(下) 2020.10.11
- 第8話 用字系の個々の歴史を無視して斜体を真似る勘違いと思い上がり! 2020.10.30
- 第9話 千鳥足の傍点はどこから来たのか 2020.11.11
- 第10話 段落の始めの字下げ(空白)は文字なのか、空きなのか? 2020.11.30
- 第11話 索引のはなし(上) 2020.12.11
- 第12話 索引のはなし(中) 2020.12.30
- 第13話 索引のはなし(下) 2021.1.11
- 第14話 行間と行送り 2021.1.31
- 第15話 続・行間と行送り 2021.2.11
- 第16話 続々・行間と行送り 2021.2.11
- 第17話 字送りと行長 2021.3.12
- 第18話 URLという難問 2021.4.2
- 第19話 続・URLという難問 2021.4.11
- 第20話 組版の品質を上げるひとつの点検方法 2021.4.29
- 第21話 行末の句読点ぶら下げは,はたして調整を減らす「標準」なのか 2021.5.17
1954年、大阪生まれ。新聞好きの少年だったが、中国の文化大革命での壁新聞の力に感銘を受け、以来、活版―電算写植―DTPと組版一筋に歩んできた。
1992-1993 みえ吉友の会世話人、1996-1998 日本語の文字と組版を考える会世話人、1996-1999 日本規格協会電子文書処理システム標準化調査研究委員会WG2委員。現在、神戸芸術工科大学で組版講義を担当。
汀線社WEB https://teisensha.jimdofree.com/
KDU組版講義 http://www.teisensha.com/KDU/
繙蟠録 http://www.teisensha.com/han/hanhanroku.htm