ゴールデンカムイの謎 黄金の国・ジパングとは北海道だった? その1
漫画『ゴールデンカムイ』の基本設定
北海道には意外な金の歴史があった
明治後期、日露戦争の生き残り兵・杉元佐一は戦死した友人の妻の眼病を直すため、一獲千金を求め北海道に渡る。
折しも北海道は砂金採りによるゴールドラッシュに沸いていた。
そこで彼が耳にしたのは、アイヌらが集めた膨大な埋蔵金の噂であった…。
2014年の連載開始以来、目くるめくストーリー展開と入念なアイヌ文化描写で人気を博した、野田サトル氏の漫画
『ゴールデンカムイ』の基本設定である。
さて北海道には、漫画の設定とは別に実際の「黄金伝説」がある。
九州筑前から蝦夷地へ そして金を見つけて甲斐の国へ?
二転三転する黄金伝説
そもそも北海道における金の採掘の歴史とはいかなるものだろうか。
その最古の記録が、北海道南部・知内町に伝わる『大野土佐日記』なる書物に残る。
鎌倉時代の元久2年(1205)、九州筑前国の船がはるばる蝦夷地まで漂流し、
現在の北海道南部、渡島半島の知内町あたりに漂着する。
そこで上陸した水夫が、川で偶然に金塊を発見した。
彼はその金塊を郷里の甲斐の国に持ち帰って当主の荒木大学に献上、
大学は金塊を鎌倉将軍・源頼家に献上することで蝦夷地での採掘権を認められ、
手勢1000人を蝦夷に派遣、以降13年に渡り、知内川周辺で採掘に従事したという。
この『大野土佐日記』は記述内容が荒唐無稽で、歴史的資料とは認められていない。
だが同時期に日本本土から多くの者が黄金を求めて北海道内に入り込んでいた形跡が、
北海道各地からうかがえるのだ。
奥州藤原氏の栄華を伝える中尊寺金色堂
使用された金箔の来歴とは?
平安時代後期。
奥州平泉では藤原氏が仏教文化を花開かせ、有名な「中尊寺金色堂」を建立した。
同時期に中国・元王朝を旅したイタリア人商人・マルコ・ポーロが記した『東方見聞録』に
日本は「黄金の国・ジパング」として紹介されているが、その文中に「金で装飾された建物」の記述がある。
その建物の正体とはかの金色堂を指しているともいう。
金箔をはりつけた仏堂の噂が中国にまで伝わり、それが拡大解釈されたもの、との説もある。
さて、金色堂の装飾に使用された金を現代の技術で分析したところ、
大半が地元の奥州、北上山地で採集された物であった。
だが、一部に出所不明の金がある。その金の出どこは、蝦夷地日高地方である可能性が高いという。
長らく続いた縄文時代
擦文からアイヌ文化へ
ここで一旦、北海道の歴史を改めてみよう。
古代の北海道の歴史は、旧石器時代、その次は縄文時代だ。ここまでは本州以南と同じ。
だが日本本土が稲作農耕、青銅器や鉄器文化の「弥生時代」に移っても、
寒さ厳しい北海道では稲作は不可能だった。
ここが北海道と本州以南(いわゆる「内地」。南西諸島は除く)との
運命の分かれ道になる。
本州以南が弥生から古墳時代へと時代を重ねていく一方、
北海道は「狩猟」「採集」「石器と土器」の生活がそのまま続いた。
この時代を「続縄文時代」(ぞくじょうもんじだい)と呼ぶ。
一方北海道のオホーツク海沿岸は、北方の樺太方面から渡ってきた民族が
「オホーツク文化」と呼ばれる文化を営んでいた。
続縄文人とオホーツク人は敬遠しあい、あるいは対立した。
『日本書紀』には西暦600年代、武人の阿倍比羅夫が「渡島」で地元住民の懇願を受けて
「粛慎」なる民族と戦った、との記録が残る。
一説によれば「渡島の地元住民」とは北海道の続縄文人、「粛慎」とはオホーツク人を指しているという。
やがて日本本土が奈良時代へと移る頃、北海道は「擦文時代」(さつもんじだい)を迎える。
「擦文」の名称は、この時代の土器の特徴である「ヘラでこすったような模様」に由来する。
擦文の住民は本州の農村の住民同様に「カマド付き、方形の竪穴式住居」に住み、
本州渡来の鉄製刃物が生活用具として普及し、石器はすでに使用されない。
生業は狩猟採集以外に簡単な農耕であり、この時代の住居からは雑穀が大量に出土してもいる。
かたやオホーツク人は次第に擦文人に抱きこまれ、あるいは故地である樺太に引き上げて行った。
そして平安時代の後期から末期。 ちょうど奥州藤原氏が栄え、
平家が壇ノ浦で滅び、源義経が兄の頼朝に疎まれ奥州に落ちのびたころ。
北海道においては、在地の擦文文化が本州はじめ周辺民族の物質文化や精神文化の影響を受け、
「アイヌ文化」へと変貌を遂げていく
ここで注意してほしいのは、江戸時代後期、明治の開拓期を除けば、
北海道の住人はほとんど入れ替わっていないこと。
「12世紀ごろ、アイヌ文化が成立した」この文言を取り上げて
「アイヌは12世紀ごろに北海道に侵入した異民族」と解する向きが一部にある。
だが、アイヌ民族は北海道在地の縄文人、続縄文人、そして擦文人のまぎれもない子孫である。
義経は奥州衣川で死んだ
だが北海道に渡った和人集団の存在は疑いない
さてアイヌ文化成立期の10から12世紀ごろ。
北海道南部や日高地方に点在する同時期の遺跡からは、
「常滑焼の壺」「金属製の碗」「修験者の錫杖の先端」など、
平安時代の日本本土産の品々が続々と出土しているのだ。
金属製の碗ならば、珍品として単体で流通するだろう。
だが修験者の錫杖が珍品として流通するだろうか。
修験者そのものが、北海道に渡ったのではないだろうか。
「源義経は奥州平泉で死んではいない。
密かに逃れ出て北海道に渡り、各地の村を廻ってアイヌに文化を伝え、
さらに大陸に渡ってチンギス・ハンになった」
という伝説がある。
モンゴルの覇者、チンギス・ハンの正体が実は源義経、との結末はともかく、
義経が北海道に渡ってアイヌに文化を伝えたとの逸話は、
松前藩がアイヌ支配の観点から意図的に広めたもの。
アイヌ伝説の英雄神・オキクルミを源義経に結び付け、むりやり置き換えられたもの。
いわばまやかしの伝説だ。
源義経は背が低かったという。だが北海道太平洋岸には、こんな伝説が残っている。
「義経が浜で鯨の串焼きを作っていたら、何かに驚いて尻もちをついた。その時の跡が、あの海岸の窪みだ」
本来は小奇麗な小男だった。
その義経が1頭を串焼きにして食うようなとんでもない巨人として語られている。
オキクルミ神の伝説を義経に当てはめたからこそ、おかしなことになってしまった。
だが義経と同時期に金を求め、蝦夷地に渡った和人集団の存在は疑いない。
遺跡に錫杖を残した修験者は、さすがに義経のお供の弁慶ではないだろう。
しかし同時期に「修験者」が北海道に渡り、山岳信仰で体得した鉱山の知識を生かし、
金鉱脈を探していた可能性は大いにありうるのだ。
この項、続く
※参考文献
・『アイヌ学入門』瀬川拓郎 講談社現代新書 2015年
・『図解アイヌ』角田陽一 新紀元社 2018年
・『アイヌ伝説集』更科源蔵 みやま書房 1981年