ゴールデンカムイの謎 その3 黄金の国・ジパングとは北海道だった? その3
江戸時代初期 津軽海峡を越え
全国から集う砂金採り
戦国時代から江戸時代初期にかけて
北海道桧山地方は、日本最北の大名である松前藩の支配する処となった。
米の栽培できない地での藩の収入源はアイヌとの交易、
そして砂金採りによって成り立った。
年貢の増収を企む藩は諸国から砂金掘りを呼び寄せた。
前々回の記事で紹介した、鎌倉時代における北海道の砂金採り伝説に登場する北海道南部、
渡島半島南西部の知内川流域は諸国から到来した砂金掘りで活況を呈し、
山中に市街地ができあがるほど。
知内川の水源の山である「大千軒岳」は、この賑わいを模した山名とされている。
山中に「千軒」もの家々を有する市街地が生まれていたからという。
イエズス会神父リーダッショ・カルワーリュが元和6年(1620)に残した記録によれば、
松前藩領に集う砂金掘りはその前年、1619年で5万人もいたという。
北海道全体のアイヌ人口が数万人だった時代、それを凌駕する和人たちが押し寄せたのだ。
砂金堀場の「ショバ代」が
貴重な藩の収入
彼ら砂金採りの生活とは、いかなるものだったのだろうか。
先のリーダッショ・カルワーリュ神父の記録によれば、
砂金採りの一団は地形を判断した上で「松前の殿」から河畔1ブラッサ(1.67m)を購入する。
その区間を掘り、川の水で洗い流せば川底に砂金が溜まる仕掛けだという。
時には300タイル(匁?)もの金塊も発見される。
だが金が運悪く発見できなくとも、松前の殿には場所代として月に金1匁(3.75g)を支払わなくてはいけない。
支払いを終えなくては、故郷へ帰れない。
そのため金で儲けられる者はごく少数であり、多くの者は蝦夷地に骨を埋めるか、
出費に苦しみ破産するかのどちらかだという。
「大千軒」の山名には、こんなカラクリがあったのだ。
金による場所代収入は年に1千両に上り、藩の年収八分の一に相当するものであった。
弾圧を逃れ
津軽海峡を越えるキリシタン
そして悲劇
さて、当時の北海道はまさに僻地。
だが問題は、江戸や上方を遠く離れた僻遠の地である松前を
何故西洋人の神父が訪問したか、ということである。
それは、当時の松前藩領には多数のキリシタンがいたからだ。
日本本土では徐々にキリシタンへの風当たりが強くなっていった江戸時代初期。
しかしながら、津軽海峡を越えた松前藩では当初、領内におけるキリスト教信仰は半ば黙認されていた。
そのため諸国から集った砂金掘りには、本土での弾圧を逃れたキリシタンも多数含まれていたという。
前記のカルワーリュ神父が松前藩領を訪れたのは、彼らのためである。
神父は松前城下の信徒の告解を聴くのに一週間を要し、
さらに内陸、知内川の上流へ数日かけて赴き、礼服で装った上で砂金採りたちの告解を聴き届ける
同時に砂金採りのありさまを見聞している。
しかし、砂金採り上での平穏な祈り生活も、長くは続かなかった。
1637年の有名な島原の乱を受け、幕府はキリシタンへの圧力を一掃強める。
その弾圧の波は津軽海峡を越えて松前藩領にも押し寄せた
寛永16年(1639年)、大千軒岳一帯においては106人ものキリシタンが処刑された。
知内川流域での砂金掘りもそのまま途絶えた。
現在、大千軒岳の山頂に建てられた十字架が、かつての悲劇を物語る。
※参考文献
『知内町史』知内町 1986年