町とワイシャツと鋳物
みなさん、どんな町で生まれました?
お正月は青山一丁目から千駄ヶ谷をぶらぶらと散歩してきました。
人の少ない年末年始の都心が大好きです。
完成した新国立競技場には1964年の東京オリンピックで使われた聖火台がすでに
戻っているそうです。自分はその聖火台がつくられた埼玉県の川口市で生まれました。
聖火台って、鋳物です。鋳物って、鉄をどろどろの高温に溶かして砂型へ流し込んでつくるのです。
埼玉県の川口市は、ぼくが子供の頃までは鋳物の町として知られていました。
年配の方には吉永小百合さん主演の映画「キューポラのある街」の舞台と言ったほうが早いかも。
現在はもう工場街の面影はなく、タワマンがたくさん生えていたりしますけれど、
物心ついた1970年頃は、それはもう。。。
朝は8時にラジオ体操 ~からの、仕事開始。
工場ばかりの町なので、まわりの大人たちは全員いわゆるブルーカラーです。
厚いキャンバス地の作業着。首にはタオルをしっかり巻いて、ヘルメットにゴーグルをつけて。
真っ赤に焼けている鉄のせいで工場の中は真冬でも汗がダラダラ。
そんな中、ヤカンの水を飲みつつ、溶けた鉄を1日中すくい上げる立派な上腕二頭筋!
夕方5時になるとサイレンが鳴ってその日の仕事は終了。
歩いて家に帰り、風呂で鋳物の砂やススを流したらさぁ6時からビールだ晩メシだ!
…という毎日。
いいでしょう? ザ・働く男って感じでしょう?
なのでワイシャツや背広を着ている大人を見たことがありませんでした。
そういう「キレイ目」な人々は日曜夕方のブラウン管の中にいる波平やマスオさんだけ
だったと思います。
公園も無かった。工場街の子供の遊び場は鋳物工場の砂場。あとは空き地。
「ど根性ガエル」のヒロシたちが暮らす町の風景に近かったです。
それから20年後。就職をして、ご近所さんの集まりに顔を出した時のことです。
◆近所のおじさん「それで仕事は何やってんだ?」
◇わたし「コピーライターというものを」
◆近所のおじさん「…コ?」
◇わたし「広告の文章を作ったり、そういうやつ」
◆近所のおじさん「文章? そういうことでその、、お金になるわけかい?」
◇わたし「…まぁ、うん」
◆近所のおじさん「よくわからないけど大したもんだ。大変か、仕事は?」
◇わたし「いや、、、なんか、遊んでいるような仕事だからそんなに」
◆近所のおじさん「ふーん?」
照れ隠しとはちょっと違うあの時の気持ち。今でもよく覚えています。
実際は徹夜つづきでゼーゼー。でも胸を張って「頑張ってる。俺も大変さ」と言えなかった。
工場の町で生まれ育ったせいでしょう。「働く=汗水流して真っ黒になってお金をもらう」が、
脳ミソの奥深くにガッツリとエンボス加工のごとく刻まれていました。
文字を書く行為を労働とは感じなかったのです。
文字なんて、誰だって書くし。
あとは確かに、どこか遊んでいるような仕事だから。
思いついた文章やデザインをノートにサムネイル、、、いや、ラクガキをして。。。
ノートに落書きですよ。これも誰だってやる。
労働している実感、労働している自分への自信。それをどこに見いだしたらよいのか、
わからなかったのだと思います。
もう大人なのに、大人になり切れていない(ような)引け目。
結局あれから、あの何ともいえないバツの悪さはずっと変わりません。
同窓会で駅前に降り立つと今でも「なんかスミマセン」って気分です。
仕方がないので30歳を過ぎてからは、悩んでいる後輩を見つけると
「遊んでるような仕事だろう? 気楽にいこうよ」と笑い飛ばしてみたりして。
自分に言い聞かせていたのですけど。
どこか遊んでいるように感じる、この世界に入れてもらえた不思議。
たぶん幸運なことなのだろうと感謝しつつ。落ち着かない気分は相変わらずで。
だからせめて、きちんと遊び切らなくては。ね。
もう1枚の写真は、となり街でたまたま見つけた鋳物工場の看板。
昭和ブームはさて置き、工場の町で生まれた子供にはぐっと来るものがあります。
いいなぁこの門柱。鋳物工場は都内にはあと10件あるかないかだそうです。