あげるよ ぼくのかけら
みなさん、ワクチン接種、どうですか?
うちの地元は小さい町だからか早く順番がまわってきて、7月の
終わりに2回目を打ちました。痛くなくて良かった。
副反応の発熱がこわいのでTwitterを検索したら
「打つ前に鎮痛剤を飲んでおこう」とたくさん書かれていたので
ロキソニンを1錠。
接種を終えて改めて厚生労働省のホームページを見たら
「接種前の服用は推奨していません」だって。。。
えー、ウソじゃん! Twitterのあいつとあいつとあいつ!
SNSの情報って気をつけないといけませんね、反省です。
で、今回のお話ですが「多様性」というやつについて。
先に書いておくと提言めいたものではありません。ほとんどお悩み相談です。
昨年の中盤あたりからでしょうか。
クライアントのオリエンシートに必ずと言っていいほど登場するのが
「多様性のある社会」みたいな文言。
もちろん世の中そうであるべき。どんな格好をしようが
どこでどう暮らそうが放っておいてほしい。さらには個々の違いを褒め合えたなら
きっともっとハッピー。
なのですが、その「多様性」を仕事のお題として出されてしまうと悩むのです。
仕事の表現にどう反映させるか悩むのです。
悩み その①『ことば遊びで終わらないだろうか?』
コロナ禍でたくさん出てきましたよね。ステイホームとか、なんとか時間とか。
それら自体に罪はないと思うんですけれど、後手後手にまわるコロナ対策から
目をそらせようといわんばかりに次から次へとスマートで耳障りの良いことばを
浴びせられ続けたおかげで「耐性」ができてしまっている風に思えます。
オリンピックの開会式はテレビといっしょにTwitterを見ていましたが
「また多様性漬けかよ」って書き込みを見ました。
だから、大上段の構えから立派な旗印をかかげるのが今こわいんですよね。
クライアントとの内輪受けはするけど、購買層に対してはスベりそうで。
悩み その②『フカンの目線で面白い表現ができるのだろうか?』
多様性をわりとそのまんま表現に落とし込もうとする場合。
「たくさんの個性を神様みたいに上から見わたす」ような視点になるとして
それはむしろ「個性をどんどん水で薄めていく」平坦な表現になりはしないか?
私は宣伝が仕事なので最終的にはモノが売れればミッションはクリアなんですけれど
たとえば画家とか、アクセサリーのデザインとか「自分自身のアクを売る」仕事を
されている人たちは、この多様性というお題をどう消化すべきと思っているんでしょうね。
もしかすると多様性って表現や発信する側のことばではなくて、何かを見るときの
「受け手の心のありよう」を正すことばなのではないか? どうなんだ、うーん。。
など、あれこれ悩み続けています。答えは出ていません。
でも先日、ヒントのようなものは見つけました。
1981年に坂本龍一がリリースした3枚目のアルバム『左うでの夢』。
1曲目に「ぼくのかけら」という曲があって作詞は糸井重里さんです。
多様性を神様のフカンではなく表現するとしたら、ひとつこういうことかも。
最後にその歌詞を記します。
あげるよ
ぼくのかけら
ありがとう
きみのかけら