「太宰治の橋」がもうすぐ終わる
跨線橋(こせんきょう)という言葉を知っていますか?
跨線橋とは橋の一種で、主に鉄道の線路をまたぐもの。線路の上に橋をかけることで
踏切で待たされることなく人の往来ができるようにしたものです。古くからあり、
跨線人道橋とも呼ばれます。
東京駅から西へまっすぐに伸びる「JR中央線」が、私が普段使うメインの路線なのですが
ここにもいくつかの跨線人道橋が残っています。
そのひとつ、JR三鷹駅の西側にかけられている「三鷹跨線(こせん)人道橋」は
ちょっとした名物で、作家・太宰治ゆかりの橋です。
「三鷹跨線人道橋」はJR三鷹駅の約400メートル西に中央線の線路を南北にまたぐように
架けられています。全長93メートル、幅約3メートル、線路からの高さ約5メートル。
1929(昭和4)年、旧鉄道省が三鷹駅の西側に車両基地を開設する際、人の往来を
確保しようと建設されました。
昭和4年生まれですよ。今年で92歳。太平洋戦争の空襲を生き延びた橋です。
この三鷹跨線人道橋が維持費の問題でいよいよ解体されることになったと聞いて、
よく晴れた午後、ぶらっと行ってみました。
ここがJR三鷹駅、その北口。
どうでもいい情報としては牛丼で知られる松屋の本社ビルがあります。立派。
駅を出て左側へ歩き始めると、すぐに玉川上水が現れます。
玉川上水といえば太宰治。彼と愛人が入水心中した川です。
玉川上水を初めて見た時、たいていの人が疑問に思うであろうことは
「こんな浅い、洗面器みたいな水深の小川でどうやったら死ねるのか?」。
この日、玉川上水はカラッカラ。東京に暮らしてかれこれ30年以上になりますけれど、
水が流れている時だっていつもたいした水量ではありません。
(昔は今よりも多少深かったであろうとしても)
調べてみると(太宰ファンには当たり前のことかもしれませんが)、
太宰と愛人が心中した昭和23年6月13日の夜は、数日来の豪雨で水深・水流ともに
かなり激しかったのだそうです。太宰の遺体が見つかったのはかなり下流だったとか。
玉川上水を左に見ながら線路沿いの道に出て歩くこと5分。見えてきました。
これが御年92歳の三鷹跨線人道橋です。
橋が作られた当時は鉄鋼が不足していたため、明治・大正期の古いレールが
再利用されているそうです。ほら断面がレールでしょ。味がありますね。
鉄なので、錆びます。そしてペンキを塗る。その繰り返しを90年以上やってきて、もう
コスト的にキビしい。JRもいよいよ手に負えなくなって、三鷹市に「タダであげるけど?」と
打診したのですが、三鷹市も「え~無理!」となったため今年の9月に取り壊しが決定しました。
そのせいでしょうか。緑色のペンキで補修されていたのは北側の一部だけ。
あとは錆びたままになっています。
なんというか、凄みのある本物のエイジング。
プロモーションビデオでも撮影すると、ヒリヒリした雰囲気でいい感じですね、きっと。
写真をもう少しいくつか並べておきます。
橋の南側を下ったところ。これもまたずいぶんと古く朽ちた案内板がありました。
写真を見るかぎり太宰の頃には橋の上の網のフェンスは無かったようです。
太宰治が三鷹へ引っ越してきたのは、記録によると橋の完成から10年後の昭和14年。
三鷹跨線人道橋は武蔵野の風景が見渡せる絶景スポットとして彼のお気に入りだったそうです。
秋晴れの午後、ノスタルジックなタイムトリップに浸れた三鷹跨線人道橋でした。
今後。取り壊しは決まったものの、幸いにして解体工事の日程はまだ決まってないそうです。
行ける方は、ぜひ今のうちに。