ハワイ山火事で思い返す名ミステリー『火車』
ハワイの古都を壊滅させた
山火事の恐ろしさ
去る8月上旬、ハワイはマウイ島にて発生した山火事
山に興った炎はフェーン現象に吹き下ろされ、ハワイ王朝の古都・ラハイナの市街地に至った。結果として数千棟が焼失し、10月上旬の時点で判明した死者は100人近く、行方不明者は30人以上。
ニュースで見るラハイナの旧市街は趣あるものだった。
近年、日本の海岸観光地でも散見されるデッキスタイルのカフェそのままだった。だが人命はもとより、歴史ある街路が一瞬にして奪われる恐ろしさ。
風情はありつつも災害には脆弱な木造建築密集地帯の問題。
平成初期のヒット小説
宮部みゆきの『火車』
さて筆者がニュースを聞いて最初に思い出したのはミステリー作家・宮部みゆきの代表作『火車』だった。それは借金に翻弄される女性の生きざまである。
舞台は、元号が「平成」に変わってまだ数年後の東京都内。刑事・本間俊介は、犯人確保時に負った傷の療養のために休職していた。そんな彼の元に、亡き妻の親戚で銀行に勤務する青年・栗坂和也が意外なことを頼み込む。
将来を誓い合った女性・関根彰子が失踪してしまった、なので探し出してほしい、という。
二人はいずれの新居のため、家具などを買い整えていた。だが彰子はなぜかクレジットカードを持っていなかった。そこで彼女にカード作成を勧めたところ、審査の段階で彼女が「自己破産経験者」とのことが判明した。事の真偽を問われた彰子は、数日のうちに新宿の職場からも杉並区方南町の自宅アパートからも姿を消してしまった、という。
休職中の刑事ゆえ「警察手帳」の御威光にもあずかれない本間は雑誌の記者や探偵を装って捜査を開始する。
最初に訪れたのは、「関根彰子」の勤務先だった新宿区の事務機器リースメーカー。そこで社長から彼女の履歴書を提示された本間は、貼り付けられた証明写真を見て「美人だな」と唸る。少し長めのショートカット、柔らかな眉が秀でた額と涼しげな目元の間に形良く収まる、一見して清楚な顔立ちだった。社長が語るには、「栗坂さんと付き合い始めてからどんどんきれいになっていた」という。すでに社にはいない「元社員」とはいえ履歴書を簡単に外部の者に公開するあたり、女性社員の容貌を何の臆面もなくあれこれ品定めするあたり、個人情報保護法以前、セクハラなど概念以前の平成初期というべきか。
続いて「関根彰子」の自己破産手続きに関わった弁護士を訪ねる。弁護士が語る「関根彰子」はクレジットカード多重債務の返済のため、昼の務めに加えて夜の仕事に手を出していた。服装は一見して夜業とわかる派手な装いで、容貌の特徴は大きな八重歯、もともと男好きのするタイプ故か、なかなか水商売から逃れられなかったという。
「関根彰子」が、新宿区の事務機器リース会社に就職したのが1990年4月20日
カードローンに悩む「関根彰子」が弁護士を訪ねたのが1990年1月25日。
三か月かそこらで、人はそこまで変われるだろうか。栗坂和也や事務機器メーカーの社長が「八重歯の一件」を特別話題にしなかった、としても。
刑事・本間は、関根彰子の勤め先から預かってきた履歴書を取り出し、弁護士に提示した。
弁護士は言下に言い放つ。
「違います」
「この女性は、私の知ってる関根彰子さんじゃありませんよ。別人です。あなたは別人の話をしている」
栗坂和也の婚約者だった「関根彰子」は、本物の関根彰子を装った赤の他人だった。
では、何故彼女は「関根彰子」になる必要があったのか。彼女の正体は何なのか?本物の関根彰子は、今どこでどうしているのか?
一連の捜査状況を聞かされた栗坂和也は激高した。いやしくもエリート銀行員であるところの自分が、そんな「水商売に手を出す自己破産者」を見初めていた…しかもその事実を告げたのは「うだつの上がらない刑事」だった…プライドを完全に突き崩された彼は本間に八つ当たりの上、「調査料3万円」を投げつけて立ち去った。
カードローンに追われる女性
彼女の勤め先は「ラハイナ」
だが本間は捜査意欲をくすぐられた。彼が弁護士と再度の面談をする。彼の義理の息子が可愛がっていた雑種犬「ボケ」が行方不明になり、ひと騒動巻き起こる…そんな中で訪問したのは「本物の関根彰子」が夜業として勤務していたスナック「ラハイナ」だった。
「一見さん」である本間を一目で刑事と見やぶった雇われママに、本間は尋ねる。
「関根彰子という女性を知らないかな。うちの甥っ子と婚約していたんだが、土壇場で気が変わって逃げ出したんだ。逃げられても仕方がない甥だから…」
意外な方法で腹いせをする本間。
ママやホステスたちが語る「関根彰子」の人物像は
「気配りが無くて、銀行員の奥さんが務まるかどうか」
「引っ込み思案で、お客を紹介してもOKしない」
「憶測で物をいっちゃいけないが、金で痛い目にあったことがありそうな感じがしましたよ」
それらの話をまとめ上げてママが口をはさむ
「あの娘、飛行機が嫌いだったの。国内線だって乗らなかったから」
「絶対」
「ええ、絶対。ねぇ、あの写真の木、なんだかわかる?」
壁には大きな木の写真が架けられている。
「あれね、ハワイのマウイ島の、『ラハイナ』って町にある、町のシンボルマークみたいな木なのよ。あたしの妹が、アメリカ人と結婚してマウイに住んでましてね。毎年一度は尋ねることにしてるの。そのたびに、お店の女の子たちも誘って一緒に連れて行くんだけど、彰子ちゃんだけは駄目だったわけね。どれだけ誘っても、とにかく飛行機が怖いから無理だって」
本物の関根彰子はパスポートを持っていなかった。その事実は「偽者の関根彰子」は知っていたか否か。仮に知っていたならば、それが関根彰子が「ターゲット」として選ばれた所以か…
作品発表から30年を経た令和初期の2023年
店の名の由来となったラハイナの街は炎に包まれた
街のシンボルツリー、バンヤン樹も然り
『火車』とのあまりにも不幸な符号ではなかろうか。
発表後30年を経ても変わらない
人間の本質「虚栄と借金」
さて「経済小説」でもある本作『火車』
名セリフを抜き出して書き添えたい。
弁護士・溝口のセリフ
「五年前、自己破産の手続きを始めて、負債の増えてゆく経過を文書に書いてもらったときに、関根さんが、私にこんなふうに言ったことがありますよ——先生、どうしてこんなに借金をつくることになったのか、あたしにもよくわかんないよのね。あたし、幸せになりたかっただけ」
破産した関根彰子を一時期匿っていた女性・冨美恵のセリフ
「あの子がクレジット三昧の生活をしたのはね、錯覚の中に浸かって居られたからよ」
「お金もない、学歴も無い…そんな子がテレビや小説や雑誌で見たり聞いたりするようなリッチな生活を思い描くわけですよ。昔はね、夢見てるだけで終わってた。さもなきゃ、なんとしても夢をかなえるぞって頑張った。それで実際に出世した人もいたでしょうし、悪い道へ入って手がうしろに回った人もいたでしょうよ。でも、昔は話が簡単だったのよ。方法はどうあれ、自分で夢をかなえるか、現状で諦めるか。でしょ?」
「だけど、今は違うじゃない。夢はかなえることができない。さりとて諦めるのは悔しい。だから、夢がかなったような気分になる。そういう気分にひたる。ね?そのための方法が、今はいろいろあるのよ。彰子の場合は、それが買い物とか旅行とか、お金を使う方向に行っただけ。そこへ、見境なく気軽に貸してくれるクレジットやサラ金があっただけって話」
そして、こう話を〆る
蛇はどうして脱皮するのか。命がけでものすごいエネルギーを消費するのに、何故脱皮するのか。
「一生懸命、何度も何度も脱皮しているうちに、いつかは足が生えてくると信じてるからなんですってさ」
「この世の中には足が欲しいけど、脱皮に疲れてしまったり、怠け者だったり、脱皮の仕方を知らない蛇はいっぱいいるわけよ。そういう蛇に、足があるように映る鏡を売りつける賢い蛇もいるというわけ。そして、借金してもその鏡がほしいと思う蛇もいるんですよ」
ハワイの惨事で思い出した『火車』の一節。
世に出てからすでに30年。
バブルはとっくに弾け世相にオフィスの様相は変われども、ふとした虚栄心から借金地獄に陥る向きは後を絶たない。
人間世界の本質を、今一度噛みしめたい。
※メイン画像は 宮部みゆき『火車』(新潮文庫刊) より転載しています。
※記載のセリフは、新潮文庫 宮部みゆき『火車』より引用しています。
※引用箇所は、すべて斜体・太字となっています。