父親は教員でした

番長プロデューサーの世直しコラムVol.60
番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光

父親は教員でした。

昭和10年生まれで中学校の社会科の教員。専門は地理だけど、中学校ですから社会科全般を教えていたのでしょう。 生徒の補導とかもやっていたので、僕が学生のころは、夜の盛り場で、パトロールをする父親にばったり出くわして、お互いにばつの悪い思いをしたこともあります。 兄と違って出来の悪かった僕には、父親の職業はなんとも都合が悪く、なにか問題を起こすたびに、学校から「櫻木先生の二番目の息子」という言い方で、なんとなく嫌みのような批判をされて気分の悪い思いをしました。多分、父親も逆の嫌な思いをしたでしょう。教員の息子が不良で。

昔の漫画に出てくるようなカミナリオヤジで、怒るとものすごい迫力でした。いろんな問題を起こすたび、よく怒鳴られて、殴られました。家の中では物が壊れるので、庭に引きずり出されてぶん殴られたこともあります。敵対する不良達よりぜんぜん怖かったし、父親を殴るわけにはいかないから無抵抗なんだけれど、そもそも、殴って返す気も起きないくらい怖かったのです。本気で怒っていたからでしょう。

それでも僕の中での父親は、地元の国立大学を出て、地元の中学校で教鞭をふるう「ただの怖い田舎の教員」だったわけです。 時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、僕は若い頃、「田舎で地味に暮らす人生なんてくそくらえだ。」と、若者らしい反発心みたいなのが強かったし、「もっとでかいことをするんだ。」という、根拠のない自信=妄想、みたいな物を抱いていました。学校でなにかと衝突する「教員」という人種が嫌いだったこともあり、自分がその稼ぎで育ってきたことを棚に上げて、父親の職業を嫌っていたところもありました。正直に言うと。

僕が高校を卒業して18で家を出てからもう25年経っていますから、父親と同じ空間で過ごしていた時間は人生の半分以下になっています。はやいものですね。あっという間です。

東京に出てきたばかりの学生の頃は、とにかくお金が無くて、九州に帰るなんてもってのほか。就職してからは、がむしゃらに働いて、田舎のことを顧みる余裕もありませんでした。年末も年始も、それこそ紅白でスマップが歌い出すまで作業をして、決まって元旦から熱を出して寝込み、4日にはロケに出発する―みたいな生活が何年も続いたため、帰省した回数も数えるくらいしかありません。当然、男の子だから頻繁に親に電話したり手紙書いたりもしない。疎遠になっちゃったわけです。自分のことで精一杯で、父親が何をしているのかなどじっくり考える時間なんか無かった気がします。

その後、僕が30を過ぎたころに父親は引退して、悠々自適の年金生活にはいりました。引退したときの仕事の内容は、佐賀市の教育長だったということはなんとなく知っていたけど、それがどういう物かはよくわからないので、「がんばったじゃん。オヤジ。おつかれさん。」と言う感じで受け止めていました。

今は、もう後期高齢者の年齢になって、昔のヤクザみたいな迫力もなくなり、優しい老人という風情。僕が子供の頃から続けている朝のランニングと、毎日やっているテニスのおかげで、健康に暮らしているという印象があります。すっかり暇になって、毎日が夏休みだ、なんて言っているようですが、幸いなことに元気なのです。

今年の11月に入って、突然、父親から「お知らせ」というタイトルのメールが来ました。 小生は11月3日(木)に叙勲=瑞宝双光章を受けました。10日午前11:40に国立劇場大劇場にて伝達式、午後2:50分から皇居にて天皇拝えつ。親爺より。 と書いてある。

なんだと、お国から勲章もらうのか?

インターネットでその賞の内容を調べてみると「国家または公共に対し功労があり、公務等に長年従事し、成績を挙げた者を授与対象とする。」とあり、毎年全国から数百人がもらえるものらしいと分かって、最初にメールを見たときほどのインパクトは消えました。 まあ、学校の先生をたまたま問題を起こさず長くやっているともらえるのだろう。順番待ちみたいなところもあるだろうし。

しかし、目出度(めでた)いことには代わりはないので、伝達式のために上京した両親を、銀座の松屋の中にある写真館に連れて行って記念写真を撮り、築地の高級寿司屋に連れて行ってお寿司を食べさせてあげました。せめてもの罪滅ぼし。

数日が経ち、父親からお寿司のお礼のメールと共に、多分、文部科学省に提出したであろう書類が送られてきました。父親が教員になって辞めるまでの勤務先と職種、そのとき関わった問題やなにかを時系列的に書き記した、父親の履歴みたいな物です。 ふ~ん、どれどれ。と読み始めてびっくりしました。父親のやってきたことを、自分があまりにも知らないで生きてきたことに驚いたのです。

父親の職業=学校の先生。サッカー部の顧問。補導主任で、生徒が万引きで捕まれば、警察に引き取りに行って、実家の座敷で説教。 知っていることなんてそんなもんです。

でも、その履歴に書いてある父親の仕事の歴史は、思っていたよりもハードなものでした。 新人教師として離島に赴任したところから始まって、僕が中学生の頃は、校内暴力が吹き荒れていた中学校の担任。その後、役所に勤務になって、組合との折衝や日の丸君が代問題、公共教育施設の設置や学校の移転に携わり、再び教頭や校長として学校に戻ってからは、そのころ出始めの不登校児童の問題やいじめの問題、教職員の質の向上のための施策に取り組んでいる。他にも、PTAとの折衝、組合との裁判、海外視察・・・などなど。あのバスジャック事件も、父親が教育長のころだったと知りました。 自分で書いたものだから、なんとなく脚色もあるのだろうけど、こんな事をしていたのか。親父も、結構大変だったのね。

大人になってたまに田舎に帰ったときに、僕が「日本の教育は最悪だ。」なんて言って怒鳴られたことはあるけど、仕事の話なんかしたこともなかったなぁ。「呑気でいいねえ、学校の先生は。」なんてことばかり言っていた気がします。親父は、「そうでもないよ」と、ぼそっと答えていましたけど。「いいときに辞めた。今の先生達はもっと大変だ」とも。

親が頑張って金を稼いで育ててくれたのに、実は親がどんな仕事をしていたかなんて、ほとんど知らなかった自分は大丈夫か?とつくずく思いました。バスケットシューズを買ってくれるのは当たり前だ、と思っていたのと同じ事です。そしてあの頃何故、幸せな家庭に育っているのに、自分からそれを破壊しようとしていたんだろうか?と。

できれば若いうちに、親のやっていることを知っていたかった気もするけれど、反抗期に自分の親の話を素直に聞けただろうか?という疑問もわくのです。親も、息子と真面目に対峙して自分のことを話すのは、面倒くさいし、恥ずかしかっただろう。とも思うし。

みんなは、自分の親の業務内容について正しく、詳しく、知っているものなんだろうか?

親の仕事での悩みや痛みを若い頃に理解できていたら、あんなに傍若無人にふるまえなかっただろうなあ。と今になって思います。今、自分が直面している、「生きていくことの困難さ」みたいなことを、当たり前だけど、父親もいろいろ抱えながら仕事していたんだろうから。

ここにきて気づいても遅いけれど、本当に申し訳ないことをしたと思います。期せずして知った父親の履歴書に、あれこれと、なんか難しいことを考えてしまいました。

Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
~株式会社リフト 第一制作部 チーフプロデューサー~

  • 1968年 佐賀県生まれ、44歳。
  • 1991年 ニッテンアルティ入社(旧 日本天然色映画株式会社)
  • 2000年にプロデューサーに昇格。
  • 2009年 社名がリフトに変更。

プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが(日本にはCMプロデューサーと名乗る人が2000人もいるそうです)、自分のケツを自分で拭こうとしているプロデューサーは何人いるでしょうか?矢面に立つのは当たり前だとつっぱって仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。根性論を書いているかと思ったら、意外に現実論者でもあります。

<主なプロデュース作品>

  • AGF ブレンディボトルコーヒー(原田知世さんと子供)
  • 日清食品 焼きそばU.F.O
  • マルコメ 料亭の味
  • リーブ21 企業CM
  • コーセーサロンスタイル 『髪からはじまる物語」行定勲監督Webムービー
  • クレイジーケンバンドPV
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