「新春!特別編おやじ放談!第2弾」~プロデューサーへの道~
こんにちは。
フェローズ マーケティング セクション 兼 アニメセクション アドバイザー
シニアプロデューサー 関田有應(せきたゆうおう)です。
2021年2月、20回目のコラム番外編
新春!特別編おやじ放談!第2弾
「プロデューサーへの道」
前回は、私と音楽の出会いのお話をさせて頂きました。
今回は「プロデューサーへの道」と題し、私のお話をさせて頂きます。
19回目のコラムで、私の社会人デビューは音楽もさることながら、好きだったテレビの世界で番組制作(テレビマン)の道を選んだと書かせて頂きました。
番組のジャンルではドキュメンタリー番組が好きで、最初の仕事はドキュメンタリー番組のAP(アシスタントプロデューサー)からスタートしました。
私が応募した就職先は、日本テレビグループの番組・制作と技術を持つ制作会社での制作職の募集でした。
募集告知は、新聞の求人欄で見つけました。
私は、学生の頃から新聞を読む事が好きで新聞に求人欄がある事を知っていました。
情報を取りに行くにも簡単ではなく、就職活動にあたり、新聞の募集欄は大事な情報元でした。
まだPCも携帯電話もないそんな時代です。
本当に小さな求人(広告)だった事を今でも覚えています。
さっそく郵送で応募し、数日後「書類選考が通過し面接を行いますので、来社するように」と人事のご担当者様からご連絡を頂戴しました。
面接は、役員面接でした。
色々な事を質問されましたが、質問の中で「最近観た好きな番組は?」と聞かれました。
私は、日本テレビの特番として放送されたドキュメンタリー「ミレースペシャル」という19世紀フランスの画家ミレーの生涯をたどる番組に感動したとお伝えしました。 音楽もさることながら、絵画の世界もとても好きなジャンルでした。
特に好きだったのが、現代美術・抽象絵画・ポップアートのジャンルだったのですが、この番組のコンセプトである、バルビゾン派の農民画家として有名で、代表作として「落穂拾い(おちぼひろい)」という作品を世に送りだしているミレーという画家の軌跡を追いながら、ミレーが描いた絵画の地に出向き、同じ構図(アングル)をカメラで再現するという番組企画です。 カメラで同じ構図を再現する。
通常のドキュメンタリー番組では行わない、斬新な企画に、心踊る思いだったと熱く語らせて頂きました。
本当に好きな番組で、再放送まで視聴させていただいた事もお伝えしました。
加えて、自分だったら別の切り口として、食べ物にももっと注目する方向での企画も考えられた!などとお話をさせて頂きました。
午前中の面接が終わり帰宅し、夕方に内定のご連絡を頂戴しました。 応募の時に、履歴書と合わせて番組企画書を書いてお送りしており、その時は、私の企画に将来性を感じてくださったのだと思っていました。
入社後、たまたま人事の取締役の方とお話をする機会があって、なぜ採用されたのかをお聞きする事が出来たのですが、これが意外でした。
役員面談の時に、私が好きな番組としてお話させて頂いた「ミレースペシャル」は、日本テレビと私が入社した番組制作会社とで制作を行っており、面接官であった取締役の方が、「あれだけ番組の事を語った応募者は彼だけ。彼を採用する」とおっしゃっられたそうです。
それが採用の決め手となったと教えてくださいました。
応募された方は100名以上いらしたそうです。
そこから私だけ選ばれた。
それが決め手とは!
何の意図もなく、ただ好きな番組のお話をしただけ。
でも、私としては嬉しかった。
好きな番組を制作している制作会社に入社出来る事と、これから色々な企画を立てさせていただき、自分の思う番組制作が出来る!と思ったからです。
ここで私のテレビマン・番組制作者としての人生がスタートを切ります。
これが、私が視聴する立場から制作する側になった瞬間です。
しかし、テレビ業界の事など何一つ知らない全くの未経験者、素人の私です。
そのためにゼロから覚えるしかありません。
ここからの3年間は半端ではない見習い期間です。
当時のテレビ業界には、派手さもありましたが、完璧な体育会系!絶対主義的 縦社会でした。
社歴の長い年下の社員も多く、ともかく厳しい。
ゆるい仕事をしていると罵声が飛んでくる。
特に現場では休む暇なんてありませんでした。
ドキュメンタリー番組で輝かしい実績を持つ暴君と言っても過言ではない取締役がいる制作会社です。
諸先輩方も強烈な「熱」「仕事に対してのプライド」をお持ちの方ばかり。
ある撮影の時、たまたまマスモニ(マスターモニター)の上に制作の荷物を無意識で置いたときに、技術のチーフから火が出るくらい叱られました。
「技術はこれで飯を食っているんだ。もっと考えろ」でした。
その通りです。謝って学ぶしかありません。
一日中、出社して帰宅するまで一切気を抜けない緊張の毎日でした。
でもやるしかない。
自分の選んだ道です。
制作プロデューサーやテクニカルディレクターからいつも言われる事が有りました。
・3歩以上走れ(スピード)
・場を見ろよ場を(状況判断)
・ボッとつったんでじゃないよ(自ら動く)
・先を読め(予想して行動する)
これが出来なければテレビ業界での制作は出来ない!
テレビマンの鉄則だと叩き込まれました。
そして我が師である取締役プロデューサーから言われた忘れもしない名言。
「制作は土方(どかた)と一緒。1に体力、2に体力、3に体力!
でもな!土方と一つだけ違う事があるんだよ。
知的土方でなくてはならないんだよ。それがクリエイターなんだよ」
さらに「新人は可能性という風船を両手一杯に持っていて、それらの可能性を一つずつ探りながら必要でない風船を手から離して大空に返すんだ。そして握りしめて手放さなかった風船の質を上げて大きく膨らませていくんだ。簡単に可能性の風船を手放してはダメだ。やるだけやってからだ」
当時の私には意味が分からず、番組制作者(クリエイター)として入社しているのに何を言っているんだか、このプロデューサーは!でした。
プリプロダクションで、撮影当日まで多くの事前準備を行い、撮影現場ではコマねずみの様に走り回り、それでも叱られ、怒鳴られ、ヘロヘロの状態で、オフラインに入り、テロップスーパーを写植屋さんに発注し、本編のタイムコードを広い(手書きです)、編集シートに書き写し、エキストラカットのタイムも拾ってから本編集(ポスプロ)作業にはいります。
2日位の完徹は当たり前!
でもまだまだ仕事は終わらない。
局プレビューを済ませてOKを頂き局に納品してやっと仕事が終わる。
この頃には体力も根気も尽き果て、追い打ちをかけるような睡眠不足。
しかし、休む暇も無く上司のお供です。
今思えば、本当に良くやっていました。
何で出来たんだろう。
映像制作、番組制作が好きだったからどんなにきつくてもテレビ業界で生き抜いてやろうという想いだけで過ごした3年間でした。
そんな日々を3年近く過ごし、いよいよプロデューサーとして一本立ちさせて頂きました。初めて担当した番組は、5分枠のグルメ番組・お店紹介番組でした。
まずは、お店探しからスタートです。
1本立ちしても、その頃はまだアシスタントもつけてもらえず、リサーチからロケハンまで先輩社員ディレクターと2名で行っていました。
1日3話数収録を行っていたので、出来るだけ移動時間を少なく出来るようなロケスケ(ロケスケジュール)を組む事を念頭に置いてのお店探索です。
リサーチするにも、SNSなど皆無の時代。
頼れる情報は書籍と、仲間から得た情報だけです。
先にリサーチを行い、その後ロケハン。
目安を決めてから、担当ディレクターとお店に行き室内や調度品、お店のコンセプト、そして一番大事な料理を注文し完食してから、取材するかどうかを決めた後、取材交渉を行いました。
2年近く続いた番組でした。
おかげさまで10キロ太りました。(現在の体形の元がこの仕事です!)
そんな生活を送りながら、アシスタントも付くようになり、業務内容も増えていきます。
番組制作からテレビCM制作、展示会用大型映像制作、インフォマーシャル、企業用VP、ミュージッククリップ制作、さらに映画制作(35mmフィルム)など、実写領域での全ての映像制作を行いました。
その後の私は、出向や他社で仕事をしたり紆余曲折の人生を過ごします。
そんな最中、大手出版社が音楽出版事業と映像制作、アニメ制作、3DCG制作、WEBコンテンツ制作の5本の柱で会社を設立する。制作部を任せたいが、というお話を頂戴し転職を決意しました。
そこからが本格的にアニメ制作・音楽制作プロデューサーとしての人生が始まります。
振り返れば何一つ無駄な時間も、何の悔いもない人生を過ごしてきました。
出会いを大切にし、好きを仕事に生かし、自分の人生を豊かなモノにする。
いつか世の中に一石を投じられる1流のプロデューサーになる!
1流になれなくても1流を目指す。
その気持ちは今でも変わりませんでした。
平成の名物キャラクターと言われているハムスターを主人公にしたアニメ作品で自分がしたかった事、やり遂げたかった事を思いっきりさせて頂きました。
しかし私は1流のプロデューサーだとは思っていません。
1流を目指しているプロデューサーです。
映像制作・音楽制作の実務からは離れましたが、今の仕事にそのスピリット「魂」はつながり続けています。
これからもキャリアアドバイザー・キャリアデザイン・キャリアプロデュースの領域で上を目指して歩続けて参ります。
クリエイターとして日々奮闘しているアシスタントプロデューサー君。
文句ひとつ言わず、逆に生き生きと仕事をしている姿を見ていると、何の迷いもなくクリエイターとしての道を進んでいるのだと実感しています。
私が出来る事は、見守ることだけです。
志を高く持ち、自分の選んだ道を迷うことなく更に真っ直ぐに進んでください。
そして素敵なプロデューサーになってください。
「がんぱれ」
先輩シニアプロデューサーとして心より願うばかりです。
映像業界40年 おやじプロデューサーのひとり言
「プロデューサーへの道」
ここまで読んでくださりありがとうございました。
早いものですでに毎月連載、今回で20回目を迎える事が出来ました。
これも私のコラム執筆にあたり、温かくも、時にはバッサリとボツにしてくださった編集ご担当者を始め、
編集部の皆さまのご尽力があってこそここまでこれました。
本当にありがとうございました。
20回連載の節目として感謝の気持ちをお伝えさせて頂きます。
それではまた次回。