「生まれ変わるなら映画館になりたい」
全米はよく震えます。そして全米はよく泣きます。映画化不可能と言われたあの待望の作品はもれなく実写化され、ラスト10分には衝撃が走り、誰もが伝説の目撃者になれそうな予告編のオンパレードがようやく終わりました。するとここで館内が一段と暗くなってスクリーン前の緞帳の端っこが気持ちばかり左右に開きます。あのわずか少しの動きは何なのでしょうか?居酒屋で日本酒を冷やで頼んだときの桝にこぼすオマケみたいな感じのほんのちょこっと。映画館の謎の一つです。
さて、映画は映画館で見るに限る、と言い切ってしまうとコロナ禍ですしうるさい面々からお叱りを受けそうですが僕は「映画館」が好きなのです。もちろん映画も好きで、大好きな映画はBDやDVDで独り占めにしたいですし、家のテレビで見ることもありますが映画館で観るのとはまるで違います。繰り返しますが僕は映画のファンと言うより映画館のファンです。
中学にあがる前に一度だけ父親がオールナイトを観に連れていってくれました。映画は「人間の條件(小林正樹監督)」で全部で9時間半の超大作。途中休憩が入って早朝おそらく5時頃に寝たままの僕を父がタクシーで連れて帰りました。場所は中洲(福岡市)にあった宝塚会館だったと思います。当時の映画館は喫煙自由で館内はまっ白。映写機から出る光のラインの上を煙がもうもうと舞っていました。僕は煙草は苦手ですが、映画館のそれは嫌いではありませんでした。あの頃の映画館は大人の場所でした。中学生になってからは一人で映画館通いが始まりました。行きつけは天神(福岡市)にあったセンターシネマというリバイバル館。中学生料金は250円でした。パンフレットも同じくらいの値段。月に2~3度行き続けるうちにもぎりのオバさんにすっかり覚えられてR指定の映画のときもこっそり入れてもらえるようになりました。
15歳のとき、行き先を告げずになりふり構わず夜汽車に乗って丸一日。降りた上野の駅でパンを買って翌朝まで過ごしたのも映画館でした。名前は確か上野パーク劇場。観た映画は大ヒットした「スター・ウォーズ」です。まさか全9作のシリーズになるなんて全く想像できませんでした。
学生時代は地元の親不孝通りにあったテアトル天神でジム・ジャームッシュやスパイク・リーやヴィム・ヴェンダースをむさぼるように観ていました。いわゆる知ったかぶり。同じクラスにいた映画好きの友達から習ったものばかりです。20代後半は乃木坂の仲畑広告制作所でひたすらコピーの修行。仕事はきびしい毎日でしたが、酒と映画には寛容な師匠だったので六本木のWAVEの地下にあったシネ・ヴィヴァン・六本木にはよく足が向きました。北野武、アッバス・キアロスタミ、園子温、ウォン・カーウァイ、何でも観ました。映画館の暗闇に入ると、ここまでは誰も追って来ないだろうという解放感に浸ることができました。
好きなものは公言したほうがよいという説がありますよね。僕も常々「落語好き」と「相撲好き」と「映画(館)好き」は隠しません。すると30代の頃、映画館の仕事が舞い込んできました。天神東宝オープンの新聞広告です(※写真①)。
張り切って書いたコピー。「真っ暗闇の中で、見ず知らずの人たちと、一緒に泣いてみたりしませんか。」「恋人がいないので映画でも見に行くと、恋人がいる人たちでいっぱいでした。」「キスシーンになるたびに、何かと話しかけてくるお父さんがかわいらしい。」う~む、今見返すとちょっと青臭くて気恥ずかしいですが、この映画館にも公私共にずいぶんお世話になりました。
きっと単なる偶然なのでしょう。ここまで書いてきた福岡宝塚会館は1997年、福岡センターシネマは1987年、上野パーク劇場は1990年、テアトル天神(後のシネテリエ天神)は2010年、シネ・ヴィヴァン・六本木は1999年、そして天神東宝も2017年に閉館してしまいました。映画館の寿命は案外と短いのです。
さて40歳を超えて再び東京に根を這ってからのお気に入りの映画館を一つあげるなら横浜黄金町にあるシネマ・ジャック&ベティです。県をまたぎますし、さすがにこの一年はご無沙汰です。妙な胸騒ぎがしたので見に行きました。よかった!元気にオープンしています(※写真②)。ここは周辺の一見いかがわしい環境も大好きなポイントでついつい長居したくなります。せっかく来たのでバカリズム脚本の映画を一本観てから帰りました。
写真②
ところで2021年に入って50日余りで観たのは「アンダードッグ(武正晴監督)」「キング・オブ・シーヴズ(ジェームズ・マーシュ監督)」「ヤクザと家族 TheFamily (藤井道人監督)」「すばらしき世界(西川美和監督)」「劇場版 殺意の道程(住田崇監督)」「天国にちがいない(エリア・スレイマン監督)」のまだ6本ですが、その中で特に好きだった映画の話はまたの機会に。