「お伽話に近い『二代目はクリスチャン』も、やっぱり、周りの人物たちの悲喜こもごもを気を抜かずに描いてこそ映画だ、と思い直した。」
東映京都撮影所の門から入ってすぐ脇にある制作本部の廊下の一番奥に、我が「井筒組」スタッフルームはあった。その10畳足らずの部屋で、ボクは8月のお盆明けまで三か月間、つまり、編集とダビングもして完成させるまで、そこに居座ることになっていた。そのくせ、角川映画十周年記念作のその『二代目はクリスチャン』の封切り日は9月14日としっかり決められていた。今じゃ絶対に考えられないことだが、仕上げてからわずか一カ月足らず先の全国公開予定だったので、雨が降ろうが槍が降ろうがどんなことがあっても作って納めろということだった。でも、考え直してみたら、この映画はカトリック教徒のいい歳をしたシスターが、やくざ一家の二代目を襲名して継ぐという、世界史的にも前例のない奇想天外より来る大法螺(ほら)話なんだし、所詮、どんなにリアリズム芝居だろうとどれだけリアルな画像を作ろうと、映画の本質である「写実」にはなりようがないシロモノだ。思いつくままに撮って繋いでやれ、どんなタッチだろうがなんでもありだと思った。
せめて、出演者たちには、つかこうへい流の劇劇しい芝居だけはさせないように、なるだけリアルな演技を引き出したかったのだ。しかし、元々、日本の俳優たちの大方はリアリズムの即興演技法(即興メソッド)の訓練をしてきたわけじゃないし、劇団上がりやアイドル、モデル上がりが多いし、どうしても伝統的な新劇芝居の域から出ないまま、先輩の紋切型の演技しか見ていないし、台詞の言い回しを日常のリアル感に崩せなかったり、間を取り過ぎたり、場に似合わず声が上ずってたり大きかったり、表情が深刻過ぎたり、どうしても「芝居だと判る芝居」になってしまうのが、日本映画の演技パターンの「常」なのだ。
化石化した臭い演技をゼロから改めさせるのが演出家、映画監督なのだが、それはなかなか難しいことだった。実は今も同じで、クランクイン前の2ケ月間ぐらい、リハーサルをして役者から芝居臭い癖を剥ぎ取って、自然な演技を覚えさせない限り、無理なのだ。(ボクが『岸和田少年愚連隊』(1995年)から、演出部で演技リハーサルをしてきたのはそんな理由からだ。)
『二代目は~』のクランクイン直前になって、ジャパンアクションクラブ出身の志穂美悦子が、ボクら演出部が書き改めたシナリオや演技について、何か不安になったのか、育ての親でもある深作欣二監督に電話をして相談していたと東映のプロデューサーから聞いたが、いくら相談しようと、要は、ぶっ飛んだ架空の人物だし、その時その時の情動のまま、慎ましくもコミカルに見えたらそれでいいのにと思った。どうしたって舞台調の芝居になりがちな彼女にとっては、その演技パターンをどう改めたいのか、そのまま芝居口調でやるのか、さぞや思案したんだろうが。結果、彼女には好きにやって貰うしかなかった。ボクは柄本明や岩城滉一や周りのチンピラ役たちに演技をつけるのに精一杯だった。
6月中旬、撮影が始まる前に、息抜きに繁華街に出て、『ターミネーター』を観た。主演のシュワルツネッガーは未来からやって来た終始無表情のロボット役だった。こんな奴にそんな簡単に地球の過去が変えられたら世話ないわと小バカにしながら観たが、一つだけ勉強にもなった。シュワのロボット以外の周りの者たちこそ、こんな大法螺話にもまじめに付き合って、自然な態度で立ち向かっていた。そうだな、オーバー演技もリアル演技もないか。お伽話に近い『二代目は~』も、周りの人物たちの悲喜こもごもを気を抜かずに描いてこそ映画だと思い直した。
ロケ初日から、喫茶店を借りてのヤクザのチンピラ同士の因縁をつけて絡み合うシーンは何度も何度もテイクを重ね、時間とフィルムを使った。年輩の制作主任が「やっぱり、うちの東映の監督らと芝居のつけ方が違いまんな、細かいし、これからフィルムも結構回りそうやね。明日、神戸にロケやし、夕方まで終わるかな? 出発1時間早めますわ」と苦笑した。
神戸の街に出るとなれば、気になっていたことがある。この年の一月から、市街にある本物のヤクザ組織同士が抗争中で、敵対する組事務所に銃弾が撃ち込まれる事件が相次いでいた。俗にいう「山一抗争」で、当地の市民グループが「街にヤクザ映画ロケはお断り」の横断幕まで作ってデモをして、それが新聞の社会面に載ったりしていた。「主任さん、明日行けますの?」と訊くと、「いや、そんな近所でやるわけやないし行きまっせ」と恬として答えた。
さすが、天下の東映、だった。
『無頼』は、この緊急事態宣言後も順次公開します。
映画『無頼』予告編動画
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。
在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している
■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw
■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE https://www.izutsupro.co.jp