正しいことをする
いきなり出す名前が経営学者の名前で話が難しそうなんですが
オーストリア人の経営学者でピーター・ドラッカーという人がいます。
経営学やマーケティングに関係している人は知らない人はいないというくらい
有名な人です。
この人の本や、他の、例えば投資家のジョージ・ソロスの本などを読んでいると
経済学や経営学の話なんだけど、なんとなく学問という感じではなくなっていって
突き詰めて行くと哲学書を読んでいるような気分になってきます。
多分、人や組織のお金に関する能力について、数学的な理論を作るのが
難しいからです。つまり金儲けには公式はないってことで。
まあ、正しいか正しくないか答えはなく、どう考えるのか?
という話になっていきますから、「どう生きるか?」の問いに近づいていきます。
ドラッカーはすでに亡くなっていますが、ドラッカーの本に出てくる言葉で
どうしても引っかかっちゃって、唸りながら考えさせられた言葉があります。
「正しくやることが重要なのではない。正しいことをやるのが重要なのだ」
と書いてありました。
これ、結構、真実をついてますよね。
今の僕の周りの問題ってここにあるんじゃないかと思ってしまいました。
つまり日本の中にある病気の巣みたいなものは、正しくやることはできても
正しいことをする、ということができないでいるんです。
ものすごい勢いで変化する世の中、想像もつかないことが現実に起きるような世の中にあって、組織も個人も変化を求められていますが、
「やり方」を変えるだけではもうついていけない。「やること」を変化させなければいけないんだと思うんです。
日本人はこれまで物事を「正しくやる」ことで成功してきた国です。
同じものを正確にいくつも作るとか、組織のルールを厳格にするとか、故障しない自動車や家電を効率的に作る。みたいなこと。
そういうことは大切なことではあるかもしれないけれど、それをやってるから俺は偉いと思っていると間違いが起きる時代になってきたんで
すね。
思いもよらぬピンチに襲われた時、いつもと同じことをしていても助からない。
この決まったことを正しいと思ってやり続けるやり方では、ゼロから新しいものを生み出せない。
という問題を持っているし、それが日本の弱点だと実は長い間言われてきました。
東京オリンピックが、そのいい例だったと思います。
東京オリンピックの開催までの経緯は、今の日本の問題の総決算でした。
僕が偉そうに語ることではありませんが、オリンピックの運営にはいくつかの
重要なファクターがあります。
まず、IOCや国際機関と折衝する部署。政治家レベル。
次に、運営。各スポーツの会場、警備、タイムスケジュール、観客、を管理する。
組織委員会レベル。
そして、開会式や閉会式などのイベントを盛り上げる部署。召集されたクリエイター。
東京オリンピックの是非を問う時はこういうことを分けて考えなければこんがらがっちゃう。
不祥事、予想外のコロナと延期、無観客など難しい問題が山積みでしたから
いろんなことがごちゃ混ぜになって、人々の大きな不満のうねりとなって
身動きが取れなくなって、曖昧な結論を出し続けて勢いで開催された感が強い。
競技そのものは、人生をかけたアスリートの戦いの場ですから、これがしらけることは
絶対にない。命をかけて戦う人は演出なんか必要とせず勝手に登っていってくれるものです。
試合のスケジュールや選手の移動、宿泊など、コロナ感染対策という余計なものが入ったことは大きく面倒だったとは思いますが、大会の運
営は前例もあり、物理的なことから割り出せる答えがある。だからそういうことに失敗なんかしないと思うのです。「正しくやれる」ことだから
です。収支の問題はさておきですが。一応問題なく終わった。
残念だったのは、全国民が期待していただろう開会式と閉会式でした。
仕事柄、関係者に知り合いも多く、頑張っていた人たちもみていたのであんまり悪くは書けませんが
期待していたものにはなりませんでした。
参加したクリエイターたちは本当に悔しい思いをしたのだと思います。
オリンピックの開会式の仕事は最高に名誉なことだし、一世一代の仕事になるはずだった。
ただただ、いろんな問題がありすぎて、何年もかけて計画したことができず、事情ばかり押し付けられて、担当者が交代し、時間と予算が削
られ、ああいう結果になった、多分。
偉い人たちがバカなことばかり言ったりしたりする。
ゼロからパーティーを作り、前例のないオリジナルなコンテンツで人を喜ばす、
びっくりさせる、感動させる。ということが日本人はできないということを露呈してしまった。
やっぱり「正しいことをする」ということができない。
今の日本の魅力を世界中に発信する最大のチャンスだったのに。
といいながら、僕らCMの制作もテレビの番組も映画もそれをできないで苦しんでいる。
他のドラッカーの本の中に、「正しくやることが重要なのではない。正しいことをやるのが重要なのだ」をもう少し詳しく訳したものがあって、
「重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえない
までも役に立たないものはない」とある。
多分、オリンピックの開会式、閉会式の結果は、昭和の老人たちが出した、間違った問いに対しての、今のクリエイターたちが、苦虫を噛み潰
しながら出した、正しい答えだったんじゃないかと思うのです。
じゃあどうすればよかったんだよ?文句ばっかり言いやがって。という話になります。
その答えはめちゃめちゃ難しい。できたらやってる。
ただ、逆にオリンピックの競技を見ていてその中にヒントがあると思いました。
今の若い世代の選手は平気でオリンピックで活躍する。金メダルを取る。
僕の世代はいつも大舞台で惨敗していた世代です。
どこが違うかというと、今の世代は科学的な根拠に基づいたトレーニングをして
勝つための技術を追求している。当然新しい技も編み出すでしょう。
体格が異なる外国人選手と対等に戦うための理にかなったトレーニングをする。
僕の世代は根拠の無い根性論でスポーツをしていた世代。ぶん殴られたり、水飲むなとか。
政治家とか評論家とか、ある場所にはまだまだそれが残っています。
そういう昔の価値観がまだ残っているところを排除していかないと
せっかくのアイディアも潰れてしまうし、根拠のないことを誰かの気分で一生懸命やらされてしまう。
ということですね。