「自分の映画を作っていこう。そうしないと自分の心が、自分の思想がどこにあるのかも分からなくなる。80年代の撮影所システムで学んだことだった。」
『犬死にせしもの』は1986年の4月半ばに封切られたが、スマッシュヒットにもならず、とても残念だった。でもボクはもう当分、メジャー映画は撮りたくないとも思った。何でもかんでも興行成績だけを見込んで企画製作されるだけで、その考え方が嫌になったからだ。映画商売だし当たり前のことだろうが、作品を作って見せるというのではなく、商品を並べて売るだけ売るというのが我慢ならなかった。作品をバカにしてるようで、監督もバカにしてるように思えてならなかった。これからは、自分で企画して自分たちで作って売っていくことになりそうだなと初めて気づかされたのだ。
海外の映画作りは自分たちが自己主張する映像芸術を、メジャー配給網にどう売り込んでいくらで買わせるか、その戦いをしているんだということも分かってきた頃だった。よっし、これからはピンク映画の駆け出しの頃に戻ってみよう。そして、独立プロダクションで、それが人の考えた題材であっても自分に合わないものは撮らない、自分が真っ先に見て歓喜したり苦悶したりできる、お客より先に自身のための映画を撮りたいとつくづく思った。
これからは、そうでないと自分の心が、もっと言えば、自分の思想がどこにあるのか分からなくなって自己が崩壊してしまう、だから、他人の小説など放っておいて、何より自己分析と社会分析が合わせてできる映画を撮っていこうと思った。それでこそ、客も愉しめるはずだと、毎日毎日、そんなことを考えながら歴史本や実録小説や事件記録ばかり読み漁った。新幹線の車内で読もうと持ち込んだ有名作家の小説も真実が見えなければ、降りた駅のホームのゴミ箱に捨てていた。80年代の東宝、日活、東映の撮影所システムの中で学んだことはそんなことだ。画面の作り方より、映画への思い方だった。撮影アングルやライティングより、映像と自分との向き合い方だった。
街に出ると、どこが面白いのかも分からない映画が溢れていた。チェビー・チェイスやダン・エイクロイドらが出演したアメリカ映画『スパイ・ライク・アス』(1986年)は東西陣営の冷戦騒動の中で、国防総省もソ連もバカにしているスパイ喜劇だった。監督のジョン・ランディスも俳優たちもクセ者揃い。奴ら喜劇人の英語の漫才が分からないのが何より癪だったが。日本のスパイコメディ映画は見たことがないし、ソ連とアメリカを手玉に取って金を儲ける元全共闘のアナ―キストの話なんかできないものかと想を練ったりした。でも、内閣情報調査室に知り合いがいる訳はなく、諦めてしまった。後年の拙作『ゲロッパ!』(2003年)では内閣情報調査室員を登場させた。あれは銀座の飲み屋でジャーナリストの紹介で、元調査室の人に名刺を貰っていたから、それでもう一度会って取材したからだ。私らは警察から出向して首相とその周りを調べて秘密を守るだけですと言っていただけだが。次に撮るものを見つけるまでは日々、何でも調べて、どんなゲテモノ映画でも見る、その繰り返しだった。ウディ・アレンは悲観主義者で人間世界の悲惨と虚無を喜劇にする名人なので、『カイロの紫のバラ』(1986年)も観た。でも、他愛なくて感心しなかった。彼の思想は分かったような気がしたが。マーティン・スコセッシ監督の『アフター・アワーズ』(1986年)は、デ・ニーロを頓珍漢で狂った芸人になりきらせた『キング・オブ・コメディ』(1984年)という傑作を撮った後のもので、見逃せなかった。ニューヨークで暮らす不眠症のワープロ技師の男が深夜喫茶でエロ文学の「北回帰線」なんぞを読んでると若い女に出会って、朝まで引っぱり回される一夜の冒険話でその設定が可笑しかった。八百長試合をして転落する実在のボクサーの半生を描く『レイジング・ブル』(1981年)、「ザ・バンド」のコンサート記録の『ラスト・ワルツ』(1978年)、もっと遡れば、ニューヨークのイタリー街のチンピラたちの『ミ―ン・ストリート』(1973年制作)など、スコセッシが世に放つ映画は客を病みつきにさせる麻薬のようだった。これほど人の人生の光と影を克明に写す作家はいなかったからだ。そして、その後のギャング映画『グッドフェローズ』(1990年)あたりを最後に、ボクは彼から気が離れていった。途端に話も画像も面白くなくなったからだ。彼はメジャースタジオ映画でヤングアイドルを使った外連味たっぷりの語り口で撮り始めるのだった。
86年の夏の終わり、『エイリアン2』(1986年)も登場した。一作目から何年も経って、宇宙に放り出して縁を切ったはずの怪物がどうしてまた戻ってきたのか、仲間と酒を飲んでから見に行った。怪物より、戦う兵士たちが劇画で薄っぺらく、くだらなかった。CG画像の空想科学の時代は始まっていたが、ボクはW・フリードキン監督の久しぶりの刑事アクション、『L.A.大捜査線/狼たちの街』(1986年)のロスのリアリズムに魅了された。主人公の刑事が悪党より先に死ぬのが革命的だった。映画は作家の思想だ。この頃、ボクはそれを知って、なんとも清々しい気分でいた。
(続く)
※()内は日本での映画公開年を記載しております。
●『無頼』
東北地方では、青森・フォーラム八戸の公開の他、フォーラム山形、フォーラム福島で、そのうち公開予定です。
『無頼』予告編動画
映画「無頼」セルDVD 2021年11月25日 発売。
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している
■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw
■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
https://www.izutsupro.co.jp