「高校生のセールスマン」
第5波の緊急事態宣言が解除されて2カ月余り。コロナ前にはちょいちょい飲んでいた仲間たちとの再会がかないました。土曜日の昼下がり、場所は恵比寿のビアホール。高校の同級生I君とM君との男3人の会。2時間キッカリ延長なしで解散というルール。
僕たちの母校は福岡県立糸島高校。福岡県の西にある良く言えば伝統のある逆に言えば伝統しかないのんびりした公立学校です。糸島という街は住みたい街ランキング等で最近は上位の常連になっていますが僕たちが通った80年代はほんとに何にもないだけでした。
高3のとき駅前商店街の入口にできたミスタードーナツがその頃唯一の映えスポット。オープン当初は大行列でお客もバイトも全員糸高生だったこともありました。昨日のことのようにというのはウソですがその光景ははっきり甦ります。
男3人会はいつも当時の思い出中心の非建設的な会話ばかり。今回の目玉は同級生のH君の娘が東京五輪で銀メダルに輝いたこと。彼女の活躍は自分のことのようにというのはウソですが本当にうれしかったです。そんな中、I君が唐突に「そういや門田は高3のときに演劇部で大会に出たよな。オレその舞台を見に行ったよ。場所は福岡商業の体育館だった」と言うのです。I君は断片的な記憶力が強い人。僕はジョッキを50肩で傷む左手から右手に持ち替え目をつぶって急激にあの頃の場面を思い返しました。
僕は糸島高校では1年生の夏から卒業まで新聞部に在籍しました。熱心だったと思います。全国会議にも参加しましたし編集長も務めました。いくつか賞もいただきました。文化部としては部員数もわりと多く20人以上いたと思います。戦前からの伝統が代々きちんと受け継がれた部で、3年生は夏休み前に新聞作りを2年生にバトンタッチ。しかしそれからも部室には毎日顔を出しました。その新聞部の隣の部室が演劇部でした。こちらは部員がわずか4人で全部女子。男子がいないのでやれる演劇が少ないのが最大の悩み。彼女たちは発声練習のとき「あえいうえおあお男がほしい!」と叫んでいました。事情を知らない大人が聞いたら、職員会議で問題になりそうな発言です。
あ~、思い出してきました。冷や汗が出ます。しかしそれと同時に記憶を定かにするためにもあの場所に行ってみたいと強く思いました。するとたまたま今月地元に戻る用ができたので短い時間でしたけど約40年ぶりに母校を訪ねました。街全体は様変わりしましたが、学校の敷地周辺だけは治外法権なのか昔の景色です。毎朝生活指導の先生が立っていた校門をくぐります(※写真①)。

ドキドキします。玄関から入って校長室前の廊下。時間が止まったみたいに変わっていません(※写真②)。

そして僕が一番見たい場所へ。部室の建物!信じられないほどそのままの姿で今も使われています(※写真③)。記憶がドーッと音をたてて甦ります。

1981年。演劇部の一年一度の大会は11月。新聞部を引退し特に受験に興味がなく暇を持て余した僕は、演劇部の後輩から「そんなにヒマならうち(演劇部)を手伝いませんか」の誘いに渡りに船でひょいと乗っかり突然船頭となりみんなを振り回しました。もう遅いけど猛烈に今回反省しました。
あの夏、いきなり休みに合宿を開催したり、新聞部の後輩のS君を強引に巻きこんだりしました。今なら完全にパワハラ高校生です。
大会で演じる劇での僕の役はバス停で佇むセールスマン。衣装は古着屋で購入しました。そのスーツを着て街の飲食店に「演劇のパンフレットに広告を出しませんか」とセールスの練習をやらかしました。お金を出してくれたお店もありました。高校生のやったこととはいえ、情けないです。恥ずかしい。
ついでに街も少し歩きました。昼休みになると上靴のまま学校を抜けてはチェリオを飲んだ「いしばし(※写真④)」とお好み焼きを食べた「天山食堂(※写真⑤)」の行きつけの2軒はどちらも跡形はありましたが閉店して随分年月が経っていそうでした。


そしてあの糸高生だらけで賑わっていたミスタードーナツは姿を変えて福岡のソウルフードのひとつ「むっちゃん万十」のお店になっていました(※写真⑥)。よく見ると三角屋根のデザインは当時の店の名残かもしれません。

時代も変わり、街も次々新しくなるけれど、高校の隣にある名もない溜池から見る校舎(※写真⑦)はあの日のこともこれからの僕たちのこともじっと見続けてくれるような気がしてなりませんでした。

ところで今回母校への公的な来校目的は卒業証明書の受け取り(※写真⑧)でしたという話はまたの機会に。

