映画とCM
- 番長プロデューサーの世直しコラムVol.3
- 番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光
映画とCM。これはまったく別物である。ということが僕にはわかりました。 同じような服を着て同じような靴を履いてやる競技でありながら、マラソンと100M走は全然違う。それくらいの違いはあります。つまり、それ専用のトレーニングを、長年積んでこないとある水準に達することができないのです。100mの選手がいきなりマラソンの試合に出て2時間ちょいで走りきるのは無理。逆にマラソン選手が100Mを10秒台で走るのも無理ですね。 映画はストーリーテリングでCMはアートディレクション、とも言えます。
インターネット、ブロードバンドの進化でCMのプロダクションもネットムービーやプロモビデオなどの、30秒より長い映像を作る機会が増えています。必然的に今まで直面したことのなかった色んな種類の問題が起こるし、事件にぶつかり始めている。CM制作会社は、CMだけやっていればいいという時代じゃなくなってきました。CM制作者にも、尺の長いものを作る時の覚悟が必要になってきています。
僕が最初に作ったショートフィルムは、以前ここでも紹介させていただきましたが、
コーセーサロンスタイルというシャンプーのキャンペーンで行定勲監督を起用したネットムービーでした。30分くらいの話をまったく違ったシチュエーションで3話。すごい経験でした。名前のある映画の監督を起用して作る映画は、それがショートでもCMとはまったく考え方が違いました。
極端な話をすると、映画に比べたらCMは仕事です。制作者側が世間的に名前を出すわけでもなく、短い期間に比較的高額なギャラで、スタッフはドライに職人としての仕事をこなす。内容は商品のためのもので、いかに魅力的に商品を紹介するかに尽力します。CMの出来がいまいちならば話題にもならず、作った人も極端なことを言うとバックれることもできる。話題になった時だけ、雑誌などに取り上げられ、俺がやったんだみたいな顔ができる。
決して、CMが映画より劣ると言っているわけではありません。批評にさらされる機会が少ない。まあ、内容によっては苦情の電話3本でONAIR中止に追い込まれるようなこともありますが、個人攻撃の対象にはなりません。 CMはとにかく余分なものをそぎ落とし、シンプルに、魅力的に、目立つように、インパクトを与え、好むと好まざるとにかかわらず、タダで視聴者に見せて、ほんの30秒や15秒で楽しませ、商品の名前や特徴を覚えさせる。それにはそれ用の特別な技術があり、マーケティングや商品開発の時点からどういうCMを作るのかまで考えられてできている商品さえあります。まるで精密機械なんですね。しかもぱっと見て魅力的じゃないといけない。だから100m走。そういう意味で仕事。
映画は作品です。仕事だと思ったら、ビジネスだと思ったら、やってらんないことがありすぎる。深く愛していないとあんな作業はできません。作品は監督のもので、監督は誰なのか、名前を公表してその作品の善し悪しを世に問わなければならない。大きな期待を抱いている観客のそれを裏切ったら、ぼろくそに言われる。心ない評論家も好きなことを書く。 だから監督は、納得できないと世に出そうとはしないし、その作家性に賛同したスタッフが親戚のように集まって、血の契りを交わし、一丸となって進む。拘束期間は長く、過酷で、関係は複雑。やってるうちにどっぷりはまって、次々に危機を乗り越えていくチームの一体感が快感になっていく。ランナーズハイ。だからマラソン。 決して割り切れることのない、大きい素数みたいなものです。
普段テレビコマーシャルを生業としている僕が、なんとなくやれるんじゃないかと思い、手を出したネットムービー。想定の範囲外の出来事が次々に起こりました。プロデューサーという本質と戦う毎日。やりたいことはどんどん増えていき、与えられたお金と時間はどんどん減っていく。新たなことを思いつく監督。スタンバイの変更。雨が降り、雪が降り、時間は大幅にオーバーする。問題、調整、問題。体の調子が悪い人も出てくる。いつも決断をせまられ、あやまり、怒り、なだめ、すかし、ごまかし、表面的に笑い、話し合う。毎日誰かとけんか。その日が終わってほっとして、家に帰ると監督からの相談の電話。心の安まる日はありませんでした。
映画の監督とプロデューサーは、ロケ地の旅館で夜中に脚本の見直しばかりしているものです。ここを削ろう。成立するのかしないのか。最初の脚本から色んな事情で何ページもなくなっていく。それでも監督は考える。どうやったら面白くなるのか?それで良いのか? 欲しいものは持っているお金よりちょっと高いんだぜの法則。できたものはだいたいいつも、作りたかったものの3分の2くらいになっています。あれ、やれば良かったかなあ?やらせてあげられなかったのかなあ?という後悔。
頭を抱えてひっくり返り、おなかをおさえてうずくまる毎日。のしかかる責任と面白くしたい欲望。お金を払う側におこがましいと思いつつお金を要求し、使う側のことは、平気なふりをしてしめる。あの時悪くして飲み始めた胃炎の薬を、まだ毎日飲んで暮らしています。そういうものです。
そうやって完成した作品は、もう可愛くて可愛くて、面白い面白くないの判断はつきません。僕には。各シーンに思い入れがあり、見るたびにそこで起こった苦労を思い出し、よくやったよな~とじ~んとするんですね。難産で生まれた子供を見るお母さんの気持ちってこんなものか。
その作品は、インターネットでの公開が終わった後にDVD化の話をいただき、制作費の不足分の補填にもなるので、DVDにして販売をしました。 DVDにして販売したのだから、お金を取って見てもらうのだから、制作時の色んな制作者側の苦労話なんか関係なく批評にさらされる運命を背負わせてしまったんですね。 それがわかっていませんでした。ここに映画とCMの大きな違いがあります。
ある日、Amazonのレビューを見たら、そいつの家にバット持って行ってやろうかと思うくらいの文章が書いてありました。
いくつか抜き出してみましょう。
『最低最悪の代物。僕は行定監督は日本の映画監督の中では2番目に好きだ。だから、こういう駄作を生み出してしまったことが残念でならない。 ベタすぎる演出に何がやりたくて、本当にだからなんなの、と言いたくなるような物語。矛盾がすぎる展開と安っぽい演出と、なんのカタルシスもない台詞。 本当に行定監督が撮ったの、と疑いたくなる出来。柴咲コウが死ぬほど好き、という人以外は見ることはないでしょう。お金の無駄です。』
『もともとシャンプーかコンディショナー買った人へのオマケ・ムービーだったわけだけど、とてもお金払ってまで時間を使う価値ナシ。 主演・柴咲コウに監督・行定勲というセカチュー・コンビを起用しました、ってだけで、ストーリーに捻りはないし、映像的な見せ場もなし。 中身が全然なら、目当ては柴咲コウ、となるのかもしれないけど、3作の主人公はそれぞれ別にいて、彼女は助演者というよりも狂言まわしの役でしかなく、出番も少ない。 そもそも、夫に浮気された子持ち主婦の復讐心、芸者への少年の思慕、義理の娘に思いを寄せる牧師の懊悩、って、ヘアケア製品のユーザーに訴えるもんがあるのかなあ。設定の無理ばかりが目につくんだけど。 予算もらったんで「髪」っていうモチーフだけは満たすようにして適当に撮ってみましたけど、所詮バイトだもんで何も深く考えてません。ってとこ?』
まあ、こんなひどいことばっかりじゃなく、良いことが書いてある批評もあるんですけどね。でも実際こんなことが書いてある。びっくりしました。なんでこんなことが書けるのよ?
そうか、映画ってこうなるんだなあ。 CMにはない感覚。監督の言っていた「名前を出して仕事する」とはこういうことか。そう思い、なんとかこういう意見も自分の中で受け入れようとするけれど、できません。可愛くて仕方ない作品だから。僕もプロだから、お前がやってみろよとは思いませんが、何がわかるんだよ。深く考えてないだろうお前ら。と、思う。正直に言うと思う。やったこともねえくせに。と。
本当にお金を出して買ってくれた人の意見なので、いわばクライアントの意見。だけどさあ。こんなこと書かなくても良いんじゃないんでしょうかねえ。AmazonはDVDを販売している場所でもあります。そこでこういうことを書くということは、レストランの看板に、「この店ゲロまずい。食う価値ありません」と落書きをするようなものだとも思えるんです。言うならば営業妨害ですよね。これで売り上げの下がった分を誰が責任取ってくれるんでしょうか?
この映画を面白い、是非見た方がいい。と言う人もいるわけです。人には好き嫌いがある。自分の理解できる世界だけを世界だと思い、予想に反したり、理解できなかったりすると簡単に文句を言う。文句言うだけだったら僕も言う。色々考えて手抜きな作品だったら怒りますよ。文句言うだけなら友達とのネタにでもしていて欲しいものだけれど、こうやって公の場に文章として書かれることへの影響力というものをまったく考えないで書いている。書ける場所がある。 そこがネット社会の問題だと思うわけです。2ちゃんねるの問題と同じですね。
誰が書いたのかわかる仕組みになっていても、こういうことを書けるでしょうか?
名前を出して作品を世に問う人が、名前を出さない人に誹謗中傷される皮肉な結果。井戸端会議も議事録をつけると恐ろしい文章になることでしょう。 それを誰でも見ることができる所へ、自分を隠して、わけ知り顔で書き込む神経。ゆがんでいますね。匿名で言いたい放題言う社会。 それこそ品格の問題。人のふり見て我がふり直します。いつも万人受けするようなものを作ろうと思っているわけでもないので色んな意見があるのは当然ですし、みんなにほめられたいわけでもない。批評は大いに結構ですが、書くということに責任を持って欲しいわけです。
教育という観点でもこれは問題。新しいメディアについて、いじめやなんかの原因にもなりかねないこの状況を、教育者は理解しているでしょうか?これまた全員を教育できるわけでもありませんでしょうから、なんらかの規制が必要になってくるでしょう。「インターネット上での意見は自由に書いてもいいけれど、誰が書いたのかわかるようにする、隠せない」法律。それが必要になってくると思います。
ある日、このAmazonの話を行定監督にしました。僕。めちゃ怒って。 そしたら、行定さん 「わっはっは~。腹立ちましたか。あのね、文句書いてくれるのは、それだけ 興味を持ってくれているということでありがたいことなんですよ。実際になんらかの形で見てくれているわけだから。一番嫌なのは無視ですよ。気にもかけてもらえないのが一番つらいんだから。そう思って流しとかないと気が狂いますよ。そんなこと気にしていたら」。
だって。さすがだよなあ。
Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。