こんにちは、僕が番長です
- 番長プロデューサーの世直しコラムVol.1
- 番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光
こんにちは。 僕はニッテンアルティというTV-CM制作会社のプロデューサーで櫻木 光といいます。 以前、ここで、「ネットとTV-CMの融合」というテーマで文章を書かせていただいたのが縁で、今年から連載コラムを書かせていただくことになりました。よろしくお願いしますね。
書いていきたいテーマは、ずばり「世直し」です。 なんのこっちゃわかりませんが、最近のニュースや仕事の環境やコミュニケーションやなにかを見ているとなんとなく世の中がおかしくなってきてるんじゃないかと感じませんか? それがなぜなのか?どうしたらよくなるか?そういうことを知りたいと思うんです。偏ってはいますが、CMのプロデューサーという立場から自分の身の周りに起こる奇妙な出来事を、ばっさり切り捨てていきたいと思うのです。自分のことは棚にあげつつ書いていこうと思います。
というわけで、お前は誰だ?と思われるかも知れませんので自己紹介をします。
櫻木 光 株式会社ニッテンアルティ チーフプロデューサー 1968年 佐賀県生まれ 38才
(最近の主な仕事) AGFブレンディボトルコーヒー、TSUTAYA DISCUS借り放題、 AIGアリコ 電話でセレクト保険、森ビル MORI LIVING、シードコンタクトレンズ ネットムービー「ピュアプロジェクト」等
テレビコマーシャル制作を生業にしたいと思って20才の時に九州の佐賀県から東京に出てきました。特に、映画が大好きだった訳ではありません。カメラ小僧だったわけでもない。バンドを組んで音楽に没頭していたわけでもありません。当然広告研究会などに所属したこともないです。ここで詳細を書くわけにはいかないけれど(笑)、はっきりいうと不良でした。運動部で不良。硬派でしたけど。もてあましたエネルギーをなんにぶつけて良いかわからないので、自分が人と戦って勝てるかどうかとか、バイクで人より速く走れるかとかばっかり気にしているようなあほでした。あのころK-1やPRIDEがあったならば、多分そっちの道という選択をしていたと思うのです。それはいいとして。
そんな不良のあほがなんでテレビのコマーシャルなどを作ろうと思ったのか?理由は矢沢永吉のファンだったからですね。子供の頃、本物の人間でかっこいいと思える人はこの方と王貞治と高倉健しかいませんでした。あとマイケル・ジョーダン。
中学生の頃に読んだ『成り上がり』という矢沢永吉の本の冒頭に、いきなり「お前はなにが好きでなにが嫌いか。まずそれをはっきりさせろ」と書いてありました。びっくりして人生が変わりました。しかし、どうしても矢沢永吉を見てみたいんですが、テレビのベストテン番組を見ていても矢沢さんは出てきませんでした。出演拒否。でも資生堂の夏のキャンペーンのCMにいきなり矢沢さんがでてきてプールサイドでモデルの女の人とキスしていました。これだっ!と思ったんですね。CMだ。と。エーちゃんはテレビには出ないけどCMには出るじゃねえか!CM作っていたらエーちゃんに会えるんじゃないのか?そう思ってCM業界を目指して田舎から出てきました。
そして、バブル全盛の血走った目をした大人たちを尻目に、夜中の青山ブックセンターで立ち読みしたACC年鑑に載っていた、あの衝撃のコマーシャルを制作した会社、日本天然色映画社を突き止めて受験し、なんでか合格して今に至ります。 日本天然色映画社は僕が試験を受けたときはその名前だったんですが、入社する時期になぜか、今の「ニッテンアルティ」に社名が変わっていたんですけど。
こうやって、「なんでこの仕事を選んだんですか?」という質問に自分のことを真面目に考えてみると、あまりのあほらしさにうんざりしてきますね。大丈夫か俺?これ書くのやめようかなあ。まあいいか。みんなそんなもんだろう。
最初は、CMの演出家になりたいと思っていました。ディレクターとカメラマンという仕事のことしかはっきりわからなかったからです。ディレクターは監督。「用意、スタート。カット」を言う人。かっこいい。カメラマンは撮る人。ファインダーをのぞいてギャーットまわす。カメラを振り回す。
しかし、採用された時の職種は「プロダクションマネージャー」ということになっていました。なんだそれ?まあいいや。田舎から出てきて友達もなく、金もコネもない俺が、目指した会社に入ることができるんだから、入っちまえばこっちのモンだ。
PMって職種はわからんし、PMはPrになっていくらしい。プロデューサーってなんか悪いことばっかりしてそうな名前だなあ。社会人になってまで悪いことしたくもないな。どんな手を使ってもディレクターになれるようにがんばろう。「矢沢さん、いいですか。もっとオーバーなアクションで、そう、それです。じゃあお願いします。はい本番。よーい、スタート。」これだよ、これがやりたい。妄想。企画とか出し続けておもしろければ認めてもらえるだろう。そう思っていました。1991年の春。
甘かったですねえ。本当に甘かった。それから数年、地獄の日々が待っていることも知らず、ただただ自分に都合の良いことを考えていました。 その、制作の時の地獄の日々はおいおい書いていこうと思います。
プロダクションマネージャー。PM。日本語で言うと制作進行係。 主な仕事は、テレビCMの制作時の原価管理。スケジュール管理。テレビCMにはあらかじめ決まった予算があります。上司プロデューサーがいただいてきた仕事の予算を知り、スタッフのギャラ、機材費、スタジオ費、食事代、交通費、編集や録音の仕上げのお金、音楽費など、百数十項目におよぶ支払いに対して一つ一つ金額を交渉し管理して最終的に利益を上げる。 企画段階では、内容に沿った写真や映像の資料を探し、イメージの具現化を図る。制作段階に入ると、各スタッフのスケジュールを調整し、打ち合わせや撮影などの日どりを決める。ロケの場合はロケ地を探してさまよい、写真をとりロケハンの資料を作る。打ち合わせで説明をして、監督のイメージに合ったロケ地と使用の交渉をする。当然、作業中にはおなかもすくので、みんなの食べる朝昼晩のごはんの手配をする。おいしくなければならない。撮影の進行表をつくり、誰がどこで出番なのか、何時にどこにくればいいのか、何を用意すればいいのかを伝える。天気や事故の心配をして、不測の事態に備える。現場では、かちんこをたたき、ビデオ収録をして、スクリプトを付ける。撮影したフィルムを現像所に入れ、引き上げてテレシネし編集室に持ち込む。編集して録音して原版ができるが、その原板を管理して、ONAIRプリントを作成し、広告代理店やテレビ局に納品する。
書き出すだけで疲れちゃうような仕事。みんなが思い思いのわがままな気持ちを伝えてきて、ほぼそれをクリアする。NOの無い仕事。表現する人を甘やかし、気分良く仕事をしてもらうことで作品のクオリティをあげる。話は刻一刻と変化していき、それにいちいち対処する。睡眠時間は減っていき、体力は消耗する。すべての情報を握っているので代わりはきかない仕事。だからおなかが痛かろうと熱があろうと、眠かろうと、必ず最初に来て最後に帰る役目。いっぱい入った同期の仲間が一人、また一人辞めてゆきます。
プロダクションマネージャーは僕の妄想からは想定外の仕事でありました。 何が何だかわからないうちは本当につらい仕事。機材のこと、編集の技術のこと、専門的知識のないまま段取り屋として動かざるを得ない状況での仕事は、各部署の専門家からするといじめやすいし、だましやすい。だから怒られたり馬鹿にされたりする。元来不良で反抗的な性格。ちゃんとやっているつもりでも、わかっていないから文句を言われるんですが、文句言われりゃカッとくる。惨めな思いもする。
そうかそうか、でもね、俺はCM界のエーちゃんになるんだよ。最初はこうなんだ。こういう思いはしないといかん。エーちゃんだってそうじゃないか。こういうとこからはい上がっていくんだよ。そうやって慰めていましたね。まじで。
頭にくるなあ。やりかえしたい。そういう事件がいくつもおこりました。 じゃあどうするか?反撃しろ、攻撃しろ、自分に負い目をつくらずすすめ。『成り上がり』にはそう書いてあるぞ。弱い自分は鍛えれば良いんだ。わかったふりするのが一番だめだ。わかったふりをしたくない。知らなきゃいけないことがごまんとある。ひとつひとつつぶして行くべきだ。
そう思って、まずスチルカメラを買うことにしました。マニュアルのカメラを買うべきだ。それも撮影部がびびるようなカメラ。そのカメラで自分の撮りたいような写真が撮れれば何かがわかるだろう。ライカだライカを買おう。あほですね。ライカのM-4を40回払いで購入しました。レンズは50ミリを一本。撮影部とまともに話をしたい。撮影の技術を知らなければいけない。そうすればライティングもわかるだろう。照明の技師さんとも機材の話ができるだろう。レンズのサイズ、画角?絞り?被写界深度。なにそれ?シャッタースピード?フィルムの感度????調べていけば知らないことだらけでした。当然スチルとムービーはすこしずつちがいますが、基本はいっしょ。だんだんわかってきました。
編集で多重合成が可能なヘンリーやインフェルノが出てきた頃。デジタルの編集のことがわかりたいと思えば、マッキントッシュを購入してみたりもしました。リボ払い。マックとモニター。スキャナーとプリンター。いまみたいな動画の編集の作業が簡単だった時代ではないので、ソフトはフォトショップ。 パソコン、デジタルって概念すらわからないで購入したため、これはなんなんだ?というところから学習しなければいけませんでした。訳がわかりません。物にあたれないので説明書をたたきつける毎日。説明書と「一週間で覚えるフォトショップ」という本はぼろぼろでした。ライカで撮影した写真をスキャナーで取り込んでマスクを切ったり、色を変えたり。合成とはなんぞや?と言うことがわかってきました。CGIもわかるようになってくる。なるほど。そういうことか。
そうしていくうちに、いろんな人と話が通じるようになる。時間が読めるようになる。何をすればいいかがわかるようになる。予算も収まるようになる。プロダクションマネージャーの仕事が急速におもしろくなっていきました。ディレクター?ああ、なってみたかったけど、こっちの方がおもしろいや。情報の量と決断力。男らしい仕事じゃないか。これでいこう。これで俺はエーちゃんになれるだろうか?
そうなると、この仕事のコミュニケーションのこつみたいな物も見えてくるものです。結構みんな、それが良いか悪いか判断に苦しんでいる。だったら自分が良いと思ったことは、技術の裏付けができるのならば、表現についてでも胸をはって、大きな声で「これが良いと思います」と言うべきだ。そしたら意見が通りやすくなるもんだ。
徐々に経験も増えていき、部下が付くようになっていきました。そうなると新しい問題に直面するようになっていきます。 僕は、部下になった若者たちに、自分が感じたこと、してきたことと同じ事を求めていました。それが当然だと思っていたからですね。「ごちゃごちゃぬかしてねえでやれよこら」と。だから部下にずいぶんきつくあたりました。怒鳴ったし蹴りました。ついてこれない奴も出てきます。それでも態度は変えませんでした。 「俺もお前も、金をもらっているからにはプロ。プロならプロの仕事をしなくちゃいかん。お客の望むことの想像以上の仕事をして見せないと、次がないのだよ。喜んでもらえない。だまって言われたことだけやってて一人前になるわけがない。自分で考えて、作戦をたてて、調べて、知って、試して、失敗して、また考えろ。人にいちいち聞くんじゃねえ。こっちの方がいいとか悪いとか、自分の意見を俺に伝えろ」。
そういうことを強い口調で部下に要求しました。特別な意識のある奴以外はついてくるわけがありません。そうやってもがき苦しんでいる様やそれでも自信満々のぼくの態度を揶揄して、広告代理店のクリエイティブディレクターが、僕にあだ名をつけました。「番長」でした。
そのあだなが急速に浸透していき、僕の呼ばれ方は「番長」になっていました。「矢沢永吉」にあこがれて「矢沢永吉」になりたいと思って、一生懸命にやってきたら「番長」になっていました。いいんだろうか?ジェダイの騎士になろうと思ったらダースべーダーになっちゃった。みたいなニュアンスだなあ。そうでもないか。「番長」。結構いいかも。まあいいや。
プロダクションマネージャーに自分の意志を持ち込みながら仕事をしていると、その考え方と行動を面白がってくれる人が、「これやってくれないか?」って僕に仕事を直接発注してくれるようになっていきました。そうすると、自分で会社の中に一つ商店を構えるような状況ができあがります。自分の器量と責任で仕事をこなさなければいけなくなる。それはプロデューサーという事になります。そういうお客さんが増え始めたので、僕の立場はプロダクションマネージャーからプロデューサーに変わりました。2000年のことです。
ディレクターになろうと思ってプロダクションマネージャーを9年やってプロデューサーになっていました。これが「番長プロデューサー」の成り立ちです。
まあ、そんな感じが僕自身の話ですね。
91年からCMの仕事をはじめて15年になります。制作を8年やって、1年アメリカの会社に出向し、帰ってきてプロデューサーになって6年。 駄目な奴だと思われないように、めちゃめちゃ意地を張って来ました。自分で引いた一線、これ以下は駄目な奴、というラインを超えないようにがんばっていた気がします。できればこれからもそのラインの基準を上げ続けていきたいものですが。
時間の経つのははやいものです。若手若手といわれていたのに、あっという間におっさんになっている自分がいます。
一周りも歳が違う新入社員が入ってくるようになって、さすがにいろんな事を感じるようになりました。僕も会社にはいったころ「最近の若いもんは」的なことをずいぶん言われて嫌な思いをしましたが、僕も今、若いもんを見てそう思うのです。 でも果たして、若い奴だけがだめなんでしょうか?そうじゃないんでしょうね。だめな奴がいっぱいいるし、世の中の空気がちょっとおかしい。希望がもてないというか、どんづまっているんでしょう。人間が弱いし軽い。
村上龍の小説「半島を出よ」のなかに、北朝鮮の軍隊が福岡を制圧するときに、日本人のイメージをこんなかんじで語る下りがあります。「なんだこの国は?日本人はこのティッシュペーパーのようだ。高度な技術で精巧に作られているが、軽くて薄くて柔らかくて破れやすい」。
実際にどう見えるんでしょうか?こういう事でいいのでしょうか?民族や国の心配をするほど僕は大きくもないし偉くもないし、する気もないけど、自分の身の回り。少なくとも仕事する環境にいる周りの人間にはそうあってもらいたくないと願うのです。やるなこいつって奴らと仕事がしたい。 こういう仕事をしている人、めざす若い人に僕のメッセージが熱として届いて、自分なりになんか考えてくれたらいいな。と思います。
Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。