ベテラン監督が言った。映画って「芸術」でも「娯楽」でもなく、その間に ある「芸能」なんだよ。芸能って解るか。大衆のための芸能だ。

Vol.64
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

ある日、ピンクコメディー映画『未亡人下宿』シリーズで名を売る山本晋也監督は、新宿東口にある「ウェルテル」という静かな喫茶店で待っていた。ボクから見つけて手を上げると、「おう!」と迎えてくれた。小柄だが、映画稼業が好きでしようがないという風貌で、おまけに威厳があった。山本さんは「オレさ、今はピンクで忙しいけど、最初は教育映画の岩波映画で助手やったり、市川崑の『東京オリンピック』(65年)も手伝ったんだよ」と先に自己紹介してくれた。ボクの方は、映画を撮るには助監督修業が必要な時代に、そんな修業なんかしていられるかとどこの専門学校も大学もいかず、何も技術的なことを学ばず、いきなり16ミリや35ミリを回してきただけだし、有名監督の前に座ると、途端に気恥ずかしくなったものだ。「カチンコなんて叩けなくったっていいんだ。活動屋ってのはセンスがあるかないかだ」と言いながら、ボクに刷りたての脚本を差し出した。「これは、日活配給のシャシン(映画)じゃなくて、ミリオンフィルムの方で、ピンクも正月作品なんだから笑っちゃうよ。まあ、予算がちょっと安い分、日活よりか自由に撮れんだ。早速、準備にかかってよ。俳優はオレがあらかたウチの常連に声かけてっから。お前さんは、撮り(撮影)5日間でスケジュール組んでくれっかな」と、山本さんの江戸っ子弁が爽快だった。ボクはちょっと気が重かった。ちゃんと助手が務まるかなと思ったが、この山本組で一から修業し直しだと、腹を括った。

一週間ほど諸準備をする間、ボクはお金もなくて宿無しだったので、年上の柳町光男監督と雑誌の対談で知り合った縁で、彼の家にお世話になった。
彼は「人が米や野菜を作るように、自分も映画を作る。自分の撮りたいものを撮る」と言う作家気質の人だった。ボクはそこまでの哲学はないにしろ、自分の観たいものを作るんだと思っていたし、映画へのセンスが似ていたので意気投合したのだ。

柳町さんは新宿の暴走族に迫った『ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR』(76年)という、ドキュメンタリーでデビューしたばかりの、映画作家を目指す先輩だった。その次に撮る中上健次原作の、『十九歳の地図』(79年)も都会で新聞配達をしている少年の孤独に鋭く迫った、独立プロらしい作品に仕上がり話題を呼んだ。彼に、巨匠ルイス・ブニュエルの特集上映会に誘われて、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(74年)『自由の幻想』(77年)を見た時は、驚きと絶句の連続だった。これらはまさにシュールリアリズム芸術で、前者は金持ちたちが夕食会に集まったもののなかなか食事ができないさまを可笑しげな会話で繋いでいて、後者は主人公が誰というわけでなく誰かの寝室に突然に郵便配達人やニワトリが闖入(ちんにゅう)して、題名どおり「自由」とは何かが各人の連想するままにエピソードが現れたりと、どちらも映画話法の常識をぶち壊していて、可笑しかった。と同時に、物語の所々にしつこい性描写を何シーンも入れ込まなければ売りものにならないピンク映画は何よりも不自由で惨めに思えた。

山本組の現場は撮影部2名、照明部3名、録音部はアフレコだからいなくて、ロケバス運転手、ボクの弟分はセカンド助監督一人しかいないので集団移動は身軽で速いが、すさまじく忙しい現場だった。食卓を囲むシーンでは出演者たちが寄って集って食べまくるので、おかずをたっぷり用意しとかないと場面がもたなかった。小道具の箸の色味さえ、監督はこだわりがあって「その赤いやつはワラって(取り除いて)黒に変えて」とうるさかった。
山本監督は昼めし時、奥方の愛妻弁当を美味しそうに食べながら、ボクに「なあ、イヅツはどう思う。お客が愉しめる場面を自分が愉しんで作れるかどうかなんだな。映画って「芸術」でも「娯楽」でもなく、その間にある「芸能」なんだよ。芸能って解るか。大衆のための芸能だ」と言った。

郊外のだだっ広い公園ロケは男女の愛欲場面なので、辺りに人気がなくなってからの深夜開始だった。監督はいつになく常連のベテラン女優に「色っぽくも何ともねえぞ。」と檄を飛ばした。女優も「もう一度、やらして下さい」と負けなかった。東の空が白んできても撮影は終わらず、「早くカメラの向き変えろ!西の方はまだナイターで使えんだろ!」とスタッフを捲し立てた。「女湯」シリーズなどコメディーが得意の山本晋也が、こんな険しい顔で演出するとは想像していなかった。山本組の現場はシュールリアリズムさえ飛び越え、役者たちの演技はリアリズムでもどこか夢の別世界を作ってるようで、それを目の当たりにしただけでも勉強になった。セカンド君は寝不足と疲労で一度、ロケ最終日に道端に座り込んだこともあったが。

ものすごいテンポの撮影と編集、スタジオでのアフレコ作業を終えた後、新宿のスエヒロで、監督はステーキを奢ってくれた。「ほんと助かったよ。ギャラ、はずんどくよ」と茶封筒に5万円を入れて手渡してくれた。山本組はチーフで4万と聞いていたから嬉しかった。やっと映画で労働らしい労働をした気分だった。すると、監督が「もう一本やるんだけど、やってくれっか」と頼んでくるのだった。

 

≪登場した作品詳細≫

『東京オリンピック』(65年)
総監督:市川崑
監修:青木半治、今日出海、南部圭之助、田畑政治、竹田恒徳、与謝野秀
脚本:和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑
企画・製作:オリンピック東京大会組織委員会 他

『ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR』(76年)
監督:柳町光男
脚本:柳町光男
撮影:榊原勝己

『十九歳の地図』(79年)
監督・脚本:柳町光男
原作:中上健次
出演:本間優二、蟹江敬三、沖山秀子、山谷初男 他

『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(74年)
監督:ルイス・ブニュエル
製作:セルジュ・シルベルマン
脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール
出演:フェルナンド・レイ、ポール・フランクール、デルフィーヌ・セイリグ 他

『自由の幻想』(77年)
監督:ルイス・ブニュエル
製作:セルジュ・シルベルマン
脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール
出演:ベルナール・ベルレー、ジャン=クロード・ブリアリ、モニカ・ビッティ、アドリアーナ・アスティ 他

出典:映画.comより引用

※()内は日本での映画公開年。
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●鳥越アズーリFM「井筒和幸の無頼日記」(毎週日曜13:00〜13:50 生放送中)

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●映画『無頼』

※欲望の昭和時代を生きたヤクザたちを描いた『無頼』はNetflixでも配信中。

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
https://www.izutsupro.co.jp

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