CM上の演出です。
- 番長プロデューサーの世直しコラムVol.89
- 番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光
テレビでCMのONAIRを見ていて、また、自分で編集室で入れてみて、かなり気になる事がある。
※CM上の演出です。
と、画面の隅に出てくる注意書きの一文。
この一文、 ・「放送したときに苦情が来るかもしれない」と想定したときに、免罪符的な役割を担わせて消費者からのクレームに対しての予防措置として使う。 ・テレビ局の局考査で何らかの理由で表現が引っかかったときに、この一文を表示したら許してもらえる事もある。 もしくは、 ・これを入れずに放送して、消費者からクレームがついたので入れる場合もある。 というシロモノ。 ただ、入れるのも見るのも何となく釈然としないものです。
バイクの買い取り企業のCMを見ていてびっくりしました。 <有名なアニメのキャラクター(泥棒で狙撃手)が自分の愛車のバイクを売る。> というストーリー(CM全体がアニメーション)なんだけど、冒頭の部分に注釈が入っている。
※CM上の演出です。公道走行時はヘルメットの着用が義務付けられています。
当然、泥棒で狙撃手のキャラはヘルメットを着用していないのだけれど、 それってアニメじゃん。 そんな事まで注釈入れないといけないのだろうか? そんなことを言い出すと、職業が泥棒の人をCMに使っていいのか?とか、 この人、すげえ拳銃を持っているけど、銃刀法違反じゃないのか?とか、 イチイチ言わなきゃいけなくなるんじゃないの?とか思ってしまう。 本当にばかばかしいけど。いろんな議論の結果、入れさせられたんだろうなぁ、と。 CMのプロデューサーがこんな事を言っちゃいけないんだろうけど。
CMにはドキュメンタリー性は皆無なので、すべてのコマーシャルは演出されて出来上がっているものです。 話はすべて商品に落とさなきゃいけないからです。 そう、※CMは全部演出されております。
それよりなにより ※CM上の演出です。 という言葉自体がなんだかよくわからない。 「だから何だよ?」といわれたらそれまでのお言葉でもある。
子供が真似したら危ない行為の表現のときに、「CM上の演出です、真似をしないでください」と入っているなら、まだわかるような気がするし、昔はそうやって入れていたような気がします。 (真似されたら困る様な事なら最初からやるな。という考え方もありますが)
が、最近は ※CM上の演出です。 とだけ入るケースが多い。枕詞だけ独立して曖昧なまま、なんとなく効力があるという事になっちゃったような気がします。それだけ入れる機会も増えたのでしょう。
まあ、CMプロデューサーとしては、積極的に「この言葉を外せ。」と言いたいけれど言えないものだし、これを入れれば多少過激な表現も「オンエアしてもいいよ。」という考査的な言い訳になるんだったら「入れちゃえ。」という判断しかしないんですけどね。情けないですけど。 喜んで入れる制作者は一人も居ませんね。画が汚れる。
※CM上の演出です という注釈は、ここ数年で頻繁に見られるようになった。確実に増えている。
腹が立つのは、こういう事をいれないといけない世の中。 いちいち誰かがそういう事に文句を付ける社会の風潮ですね。 数ヶ月前に書いた「CMをONAIR中止に追いやる心」というコラムにも通じる、というか延長線上にある話でもあるんですけど。
そもそも、なんでこんな風潮になっちまったのか?
建前と本音の文化というか、陰湿で腹黒い本性というか、村社会というか・・・。そんな日本人の良くない部分と、インターネット上での発言の自由と匿名性、その影響力の増大がばっちりマッチして、糞みたいな人間がまた増えているのも事実。
自分は何もリスクの無い場所から、顔を隠して息をひそめて周りを見ている。 そこで、自分の気に食わない表現や、なにかにつまづいた人間、問題を起こした人間を見つけると、自分の生活に直接関係なくても、例えその人がもうみんなにいじめられて瀕死の状態でも、その暗闇の中から、追い討ちをかけるようにライフルで狙撃する。 ・・・みたいな事をする人たちです。つまり、
リアルな実生活の中では言いたい事も言わず、うまく行かない事があってもある種のあきらめも含んでじっと耐えている。そんな辛さや生活ストレスを、インターネットを使って発散させているようにも見える。
そういう人たちの一番たちの悪いところは、やっている事の醜さに気づいていない事です。というか、悪い奴をみんなで懲らしめてやったんだから「いい事をしてやったんだ」と思っているかもしれない。 どうでもいい事で相手が無抵抗の時にしか盛り上がれない。 それが、「アニメだけど公道でバイクに載る時はノーヘルはだめじゃん!クレーム対象だ!」となるんだろう。 なるのかなあ?なるから注釈入れてるんだろう。
とにかく息苦しくなってきました。 この息苦しさは・・・なんというか、互いに監視し合って足を引っ張り合う世の中にどんどんなろうとしているんじゃないかと思うのです。あら探しも含めて。 それに対して作る側は本来の目的を見失いつつあるんじゃなかろうか?と。 何のためのコマーシャルなんだ?と。 商品を魅力的に見せる事と、文句がつかない事の重要さの比重がほぼ同じ。 企画会議でもずいぶん苦労する物です。 「なんか言われるかもしれない」といってボツになって行く、ぎりぎりの表現の面白い企画がいっぱいあります。誰も何も言ってない事に過剰に反応しているだけの事も多々あるんじゃないかと思うくらい。
人が笑う時は、笑う前に一瞬びっくり!します。 人は一瞬びっくりしてから笑うんです。 その笑う前のびっくり!を外して面白い事を考えなきゃいけないこのつらさ。
昔々。「8時だよ全員集合」という伝説の番組に、PTA等からかなりの苦情が入っていた事があったそうです。あまりに品がなさ過ぎて子供に見せられない。放送を中止してほしい。と。 そんな中、ドリフターズのリーダーのいかりや長介が、番組の生放送中に、「ちょっと聞いてください」といって急にその件について真剣な話を始めた事がありました。
「僕たちの番組がくだらない。と、苦情が多数寄せられているそうですが、茶の間の皆さんの家庭での子供に対する教育って、たった一時間のこんなくだらないと言われた番組に負けちゃう様な脆弱なものなんでしょうか?僕たちのやってる事をあまりにくだらないと判断したら、親が子供に「あんなことやっちゃだめよ」ってその場で教えるようなことでいいんじゃないでしょうか?それも教育なんじゃありませんか」 みたいな事を言った思い出があります。
作る側の気概って、こういうことなんですけどね。
今だとこの話も多分通用しないでしょう。社会のシステムや状況が違いすぎます。企業はコンプライアンスや危機管理にヒヤヒヤしながら暮らしているし、ネット上の炎上が株価に大きく影響する事もある。だから企業も制作者全員も「なんか言われる」という漠然とした見えない敵におびえて暮らす様な毎日になっている。なんか、クレーマーに都合のいい社会にどんどんなっちゃっているんですね。困った事に。だから注釈も増える。
でも、こういう風潮はなんとかしないと本当に息苦しすぎる社会になってしまうんじゃないかと思うのです。 どうしたらいいんでしょうか?とにかく、 自ら名前も名乗らず、自分の気に食わない、自分とは直接関係のない、無抵抗の人を文字でリンチにするような奴らはかっこわるくてクソ野郎だから本当にやってはいけない。 という教育を家庭と学校でしなければならないでしょうね。
ちなみにこのコラムは毎回「一個人の感想です。」ですから。
Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。