何度も赤信号にひっかかり、何度もNGになり、数カット撮るうちに空が白み始めた。地球が回転していたことを忘れていた。朝なんか来るな!と思った。

Vol.71
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

『ガキ帝国』(81年)は1980年の秋にクランクインはしたものの、なにせ、初めての長編映画だし、現場は試行錯誤ばかりで思ったように運ばなかった。スタジオにセットを組める予算は全く無く、オールロケだったので、百数十シーン分のロケ場所に行く度に、ボクとスタッフは途方に暮れてばかりだった。

60年代後半の大阪ミナミの街が舞台だが、十年以上前なので、裏通りの雰囲気も走る車も若者の服装もすっかり様変わりしていて、写したくない広告看板が画面の邪魔をして、ボクらを困らせた。CGなんて言葉さえない時代だ。撮りたい画面が撮れないことが一番、ボクらを悩ませた。

裏通りで喧嘩ばかりしている不良たちの物語を勢いづかせるのは、大阪弁のヤンチャ言葉のかけ合いや型にはまらないアクションだが、何より大事なのは、街の景色だった。道頓堀川の相合橋(恋人が落ち合う橋とも縁切り橋とも言われた橋)で主人公の3人組が立ち話をする場面では、当時の堀川にはなかった噴水が奥に並んでいて、録音部に「騒音が大き過ぎるからシンクロ(同時録音)は無理やわ」と言われる始末で、制作部が港湾局に2時間ほど噴水を止めてもらえないかと掛け合ったが、とても無理だった。

結局、そのまま轟音付きで撮るしかなくて、冒頭の相合橋のシーンは3人が何を喋っているのか聞き取れないまま公開してしまった。今でもDVDで見ては溜息が出る。人生は後悔しかないようだ。 

でも、どうして台詞だけをどこか静かな場所でアフレコで録り直さなかったんだろう? 今考えるとバカみたいな話だ。当時、如何に生々しいリアルな音を同時に録るか、そんな映画リアリズムの“こだわり”がボク(だけじゃなくて当時の若手たち)にはあったように思う。アフレコ台詞の不自然さ、ウソっぽさとは違うシンクロの生の臨場感にこだわっていた時代だ。録音には磁気テープがあるだけで、デジタル式ではなかった。ボクより前の時代の“活動屋”、例えば、『幕末残酷物語』(64年)で独自の時代劇を作り、『緋牡丹博徒』シリーズのオールナイト上映で学生たちを昂奮させた加藤泰監督は、京都の街ロケで市電の騒音が邪魔だったのでOKを出すまで走行を停止させたと聞いた。

アナログの時代、映画屋たちはシンクロ撮影に苦心していたのだ。

部屋で撮影中に雨が降ってきて、屋根の上にありったけの毛布を敷きつめて、雨音を抑えたり、ロケ場の四方八方の住人たちに「2分間、お静かに」と声をかけ回って、通行車も止めてエンジンまで切ってもらったりと録音部は苦労していたが、何より撮影部が一番大変だった。機材はアリフレックスより大きなパナビジョンキャメラを使用したので、紳助・竜介コンビと紗貴めぐみ嬢の3人が一緒に乗って走るホンダの軽四車の場面では、キャメラとキャメラマンはもう車内に乗れないので困難を極めた。吸盤付きのキャメラ固定アングルをボディーに貼り付けることも出来たのにそうしなかったのは、キャメラマンが「3人の会話中にキャメラをパンしたいし、ファインダーを覗いていたい」と言ったからだ。「どうやって撮る?」「車体の外に鉄の台座を取り付けて、そこに一人で乗るわ」「軽四車じゃ傾いてしまうし、竜介君も運転できないぞ。おまけに台詞を喋るんやで」「夜の場面だし、ライトもバレるから車内には仕込めないな」・・・。皆で喧々諤々の末、ドア外に鉄の台座を溶接付けして、そこに三脚とキャメラを載せ、キャメラマンがその隙間に座りこんだ。先に走る2トントラックの荷台に制作部と助監督と照明部と録音部とボクが乗りこみ、ワイヤーで軽四車をけん引しながら、夜更けのなにわ筋を時速30キロで走らせた。往き交うタクシーが何事かと目を疑ったことだろう。何度も赤信号にひっかかり、何度もNGになり、レンズを変えて数カット撮るうちに、東の空が白み始めた。地球が回転していたことを忘れていた。朝なんか来るな!と思った。

狭い軽四車の中で大阪弁の台詞と格闘していた紗貴めぐみも、夜が明けたのを悔しがっていた。彼女は日活ロマンポルノのニューフェィスだ。『ガキ帝国』ではチマチョゴリの制服が似合う朝鮮高校生で、後にピンク女優になる役回りで、(劇中の)映画館のスクリーン場面では妖艶な裸体も披露してくれた。彼女も鮮烈な印象を残した女優だが、主人公3人組の一人、趙方豪(チョウバンホウ)は一番存在感のある、即興メソッドの達者な役者だった。若くして世を去ってしまったが、彼の話はまた次回にしたい。

この軽四車の場面は、ライアン・オニールが強盗の逃走を請け負う悪党に扮して夜のロスの街をぶっ飛ばす『ザ・ドライバー』(78年)などとは比べようもない、不自然なライティングとアングルで不細工なシーンになってしまった。その悔しさもあって、15年後の『岸和田少年愚連隊』(96年)、さらに後の『パッチギ!』(05年)でも同じホンダN360に役者を乗せて意地でも撮影した。

どうにかクランクアップして、気晴らしに観たのがマーティン・スコセッシ監督が30歳でロバート・デ・ニーロたちと撮った『ミーン・ストリート』(73年)だ。ニューヨークのイタリア街で屯する無軌道なチンピラどもの話だ。先に観る機会があればもっと勉強できたのに思うと、とても悔しかった。

(続く)

 

≪登場した作品詳細≫

『ガキ帝国』(81年)
監督:井筒和幸
脚本:西岡琢也
原案:井筒和幸
出演:島田紳助、松本竜介、趙方豪、升毅 他

『幕末残酷物語』(64年)
監督:加藤泰
脚本:国弘威雄
企画:岡田茂、玉木潤一郎、天尾完次
出演:大川橋蔵、河原崎長一郎、富司純子、中村竹弥 他

『緋牡丹博徒』68年
監督:山下耕作
脚本:鈴木則文
企画:俊藤浩滋、日下部五朗、佐藤雅夫
出演:富司純子、若山富三郎、山本麟一、若水ヤエ子 他

『ザ・ドライバー』(78年)
監督:ウォルター・ヒル
製作:ローレンス・ゴードン
脚本:ウォルター・ヒル
出演:ライアン・オニール、ブルース・ダーン、イザベル・アジャーニ、ロニー・ブレイクリー 他

『岸和田少年愚連隊』(96年)
監督:井筒和幸
スクリプト:井筒和幸
脚本:鄭義信、我妻正義
出演:矢部浩之、岡村隆史、大河内奈々子、秋野暢子 他

『パッチギ!』(05年)
監督:井筒和幸
原案:松山猛
脚本:羽原大介、井筒和幸
出演:塩谷瞬、高岡蒼佑、沢尻エリカ、楊原京子 他

『ミーン・ストリート』(73年)
監督:マーティン・スコセッシ
製作:ジョナサン・T・タプリン
製作総指揮:E・リー・ペリー
出演:ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテル、エイミー・ロビンソン 他

出典:映画.comallcinemaより引用

※()内は日本での映画公開年。
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●鳥越アズーリFM「井筒和幸の無頼日記」(毎週日曜13:00〜13:50 生放送中)
https://azzurri-fm.com/program/index.php?program_id=302

●欲望の昭和を生きたヤクザたちを描く『無頼』はNetflixでもAmazonでも配信中。

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
https://www.izutsupro.co.jp

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