大阪の芸人たちをヤクザ者やチンピラ役に起用するのは、皆、テストで見せない即興メソッドができる本番役者だから

Vol.73
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸氏

1980年、秋。『ガキ帝国』の撮影は、毎日がほんとに不眠不休の連続で、ボクは身も心も疲れ果てていた。ロクに昼の弁当も食べていなかった。考え事ばかりで胃が小さくなっていて、現場では喋り過ぎで喉が痛くて、ご飯も通らなかった。製作スタッフが作ってくれる“現場コーヒー”と、時々、誰かが買いに走ってくれる牛乳とジャムパンとあんパンばかりだったように思う。そして、毎日、寝る時間も殆どなく、明けても暮れてもキャメラを回しながら、怒声を上げていた。食べていないから余計に眠れなかった。誰も撮れない映画を作るという気力だけがボクの原動力だった。

主人公の一人、金田ケン役の趙方豪(チョウ・バンホウ)だけは「ボクも食べることを忘れてます。この何日間で確実に痩せましたわ。高校生になりきってるのでちょうどいいし、身も軽くなって」と恬(てん)としていた。その顔はボクの創作力のガソリンになってくれたようだ。 一度だけ、夕方、時間が出来たので、二人でミナミ道頓堀の老舗洋食屋に飛びこんだことがある。ボクが「ケンちゃんよ、何でも食うてくれ!」と疲れついでに言うと、彼は「ほんまは鶴橋でホルモン焼き食いたいけど、酒も欲しなるし、カレーにします」と。ボクは「カレーみたいな、どうでもええよ。ステーキ食いや」と言うと、「あきませんよ。芝居がダレます」と言ってのけた。こいつは根っからの役者だと思った時だった。

不眠不休の撮影中、現場を愉しくしてくれたのは、出演した大阪の芸人たちだ。紳助竜介が初主演する大阪の映画なので、協力してくれたのだ。上方しゃべくり漫才の大御所、夢路いとし喜味こいしのいとし師匠は、少年院から帰って来た紳助扮する不良少年の頑固父親の役でオファーした。顔の長い感じが似ていたからだ。いとし師匠は現場のフィルムチェンジの時、「ボクね、戦前の御幼少の頃に、映画も出たし、劇団で役者しとったんです。兵隊はいってないけど」と心安く喋ってくれた。ボクが緊張していたからだろう。彼が『第三の悪名』(63年、大映)『てなもんや三度笠』に出たのは憶えていた。 その話をすると、「よお見てますな。下手なことできませんな」と苦笑いした。紳助くんが ロケ終わりに「師匠がこんな真面目にやってくれるとは思わんかった」と感心していた。 Wヤングのボケ役、「ちょっと聞いたあ~」のギャグで知られた平川幸男さんにも声をかけた。一年前の相方の自殺のショックもまだ冷めやらぬ中、よく出てくれたものだ。「まだ何でも呼んでね」と去って行ったのが最後だったが。 元漫画トリオの一人で芸名は横山パンチ、話芸の才人だった上岡龍太郎さんも大事な役でオファーした。顔合わせの時、これは大島渚の 『絞死刑』(68年)のアート・シアター・ギルドの映画だし、おまけにヤクザの幹部役というのが気に入ったので出ることにしたと打ち明けられた。そして、奈良の絨毯バーでの密談シーンやロケ終盤戦の南港ふ頭の決闘場面に出てくれて、「皆、寝てへんのに元気やね」と半分呆れ顔だった。上岡さんは演技上手ではなかったが、「ATGの『無常』(70年)もエロかった」と言ったり、そんな映画通とは意外だった。

ボクが大阪の芸人たちをヤクザ者やチンピラ役に起用するのは、ピンク映画時代からだ。最初に出したのはお笑い手品師のゼンジー北京の弟子、北京一くんだ。彼は丸裸で濡れ場もやってのけた。西川のりおさんはヤクザの兄貴役だった。後の『岸和田少年愚連隊』(96年)では山田スミ子さん、かしまし娘の庄司花江さん、中田ボタンさんには博奕場の流れ者役で来てもらった。  芸人さんは、テストで見せない即興メソッドができる本番役者だし、アドリブ台詞も巧いもんだ。若い俳優も芸人が傍にいたら見習うことだ。芝居にケレンがなく、無理に作って他人になろうなんて思わない。平たく言えば、役作りなどあまり意識していないから動作も自然なのだ。

主人公の一人の趙くんとは、クランクアップしてからは、毎日のように、ミナミの安い寿司屋で一緒に吞んだくれた。ボクは上手く場面が撮れなかった後悔話を酒の肴に、彼は共演した先輩芸人の可笑しげな芝居の話を肴に呑んだ。まだボクは仕上げ作業が待っていたし、胃袋も元に戻っていなくて、鮪の刺身を何切れかだけで十分だった。「どうすんの?これから」と訊くと、趙くんは「オレ、この現場でちょっと判ることもあったから、役者、続けます」と言ったのを憶えている。『復讐するは我にあり』(79年)の緒形拳さんや、『その後の仁義なき戦い』(79年)状況劇場出身の根津甚八さん、『太陽を盗んだ男』(79年)に端役で出た西田敏行さん、彼らの芝居は味がありますと話していた。 その半年後にまた一緒に、『ガキ帝国・悪たれ戦争』(81年)を撮ることになるとは夢にも思わなかったが。 東京に行って、初めての音付き編集作業に入ったのは10月。だが、その編集場でもまた大変なアクシデントが待ち受けているのだった。 (続く)

≪登場した作品詳細≫

『第三の悪名』(63年)
監督:田中徳三
脚本:依田義賢
原案:今 東光
出演:勝 新太郎、田宮二郎、長門裕之、月丘夢路

『てなもんや三度笠』(63年)
監督:内出好吉
脚本:野上竜雄
原作:香川登志緒
出演:藤田まこと、白木みのる、平参平、大村 崑、芦屋雁之助

『絞死刑』(68年)
監督:大島渚
脚本:田村孟、佐々木守、深尾道典、大島渚
出演 :佐藤慶, 渡辺文雄, 石堂淑朗, 足立正生, 戸浦六宏

『無常』(70年)監督:実相寺昭雄
脚本:石堂淑朗
出演:田村亮、司美智子、佐々木功、田中三津子、花ノ本寿、岡村春彦、岡田英次

『岸和田少年愚連隊』(96年)
監督:井筒和幸
脚本: 鄭義信、我妻正義
原作: 中場利一
主演:ナインティナイン(岡村隆史、矢部浩之)

『復讐するは我にあり』(79年)
監督:今村昌平
脚本:馬場当、池端俊策
出演者:緒形拳、三國連太郎、ミヤコ蝶々

『その後の仁義なき戦い』(79年)
監督:工藤栄一
脚本:神波史男、松田寛夫
原作:飯干晃一
出演:根津甚八、宇崎竜童、松崎しげる、原田美枝子、ガッツ石松、松方弘樹

『太陽を盗んだ男』(79年)
監督:長谷川和彦
原案・脚本: レナード・シュレイダー
出演: 沢田研二、菅原文太、池上季実子、北村和夫、神山繁、佐藤慶、伊藤雄之助、風間杜夫、小松方正、西田敏行、水谷豊

『ガキ帝国・悪たれ戦争』(81年)
監督・原案:井筒和幸
脚本・助監督:西岡琢也
出演:島田紳助, 松本竜介

▶出典:映画.com より引用

※()内は日本での映画公開年。
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■鳥越アズーリFM「井筒和幸の無頼日記」(毎週日曜13:00〜13:50 生放送中) https://azzurri-fm.com/program/index.php?program_id=302
■欲望の昭和を生きたヤクザたちを描く『無頼』はNetflixAmazonで配信中。

プロフィール
映画監督
井筒 和幸氏
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
https://www.izutsupro.co.jp

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