デ・ニーロの傑作は、『ガキ帝国』のデキに落胆していたボクを励まし、リアリズム演技の勉強にもなった。
1980年の11月。ボクは、国鉄の夜行バスで上京して、東京の中野にある小さなラッシュ編集室に出向いて、編集作業に立ち合っていた。
『ガキ帝国』は35ミリフィルムで撮影はしたものの、製作費は1千万円しかないので、16ミリの縮小ラッシュプリントを上げて、それで編集するしかなかった。それまでは日活ロマンポルノのアフレコ作品を切って繋いできたその編集マンも、その16ミリ用器材は不慣れなようで、やりにくそうだった。セリフの現場同録音を再録したシネテープを、ラッシュと同時に器材に通して画と音を見ていくのだが、場面を何度も何度も見返しているうちに、シネテープにコーティングされた磁気が音のヘッドと擦れて剥がれ、編集が中断してしまった。終いには殆どの台詞が潰れて聞こえなくなり、大阪に素材を全部持ち帰って、別の編集マンにシネテープをワンカットごと、全部入れ換えてもらった。画も音も「デジタル」でなかった時代の、ため息の出る話だ。
今、昔のフィルムのハロゲン化銀の感光微粒子は、ディスクのデジタル信号素子に変わり、色艶は自然色でなくなり、音世界は風合いがなくなったキンキンの音に変わってしまった。こんな味気ない映像と音の時代になり果ててしまうとは思わなかった。できるなら、「映画」だけでも「フィルム」とアナログの音色の世界に戻ってほしいと思う。思っているのは一握りの映画人だけだろうが。製作費を管理する者は金のかかることは考えたくないのだ。何でもかんでも世界は1と0に置き換えられてしまった。人のありよう、情動、場面の空気感が伝わる映画が少なくなったように思う。
寝る間も惜しんで編集作業をして、銀座にあるピンク映画専門の小さな録音スタジオで、仕上げダビング作業に入った。スタジオマンたちと共に徹夜が続いた。不良少年役の素人役者の台詞は、誰も滑舌が悪くて、一言一言が聞き取りにくかった。ロケ現場でヘッドホーンを当てて聞いてOKを出したつもりだったのに、2ケ月後のスタジオでは何を言ってるのか聞き取れなかった。これは、ロケ現場でテスト中に何度も同じ台詞を聞くうち、耳が慣れきってしまったためだ。撮影では、俳優の台詞は聞き慣れてはならないと初めて知った時だった。(最近の邦画でも、セリフが不明瞭なものはたくさんある。現場ではデジタル録音で拾っていても、劇場のスピーカーにかかると、セリフが曇って聞き取れない時は多々ある。これは現場での監督と録音部、滑舌の悪い俳優たちのミスからだが)
俳優の芝居のメソッドは元より、セリフの言い方、リアルな言い回しの難しさを、初めて知ったのは『ガキ帝国』を作り終えてからだ。日本の俳優たちは、自然な会話がどうして出来ないのか、どうして大仰な言い回し、舞台劇の口調になってしまうのか。なんでそんな非現実的な会話スタイルを監督は黙認してきたんだろうか、役者が新しい即興メソッドを勉強しないのは何故なのか?どうして俳優の多くはその役になりきろう、他人になりきろうと無理に表情を作って、自分から離れてしまうのか、なんで自分をそのまま出せないのか、そんな悪習を監督や俳優は断ち切れるのだろうかと、改めて思った。
年が明けて見た傑作がある。自作のデキに落胆していたボクを励ましてくれたし、リアリズム演技の勉強にもなった。それが『レイジング・ブル』(81年)だ。主演はロバート・デ・ニーロ。実在したミドル級チャンプのジェイク・ラモッタの半生を描いていた。八百長試合をしてリングを去り、ナイトクラブ経営者になり、刑務所に入ってどん底まで堕ちた後もまた這い上がり、劇場回りのボードビリアンになった話だ。デ・ニーロの演技力は『タクシードライバー』(76年)で、彼の中にいるもう一人の神経質で狂気の混ざった自分を表出させ、ニューヨークの孤独者になってみせた時から実証済みだが、『レイジング・ブル』のボクサー役では、自分の中の負けず嫌いな気質をみごとに体現してみせた。俳優とは「自分を演じること」だと教えられた。後の『キング・オブ・コメディ』(84年)でも、彼はコメディアンになってテレビに出て名を馳せたい妄執にとらわれた変な奴を、最高に可笑しく演じてみせた。これほど自己の一部を全面に引き出せる技をもつ俳優は少ない。
余談だが、デ・ニーロに演技力で対決できるのはアル・パチーノか。シドニー・ルメット監督の傑作、『狼たちの午後』(76年)では、同性の恋人との関係も断ってどこかに飛び立とうと決心した銀行強盗を演じた。彼も狂気を帯びた別の自分に豹変できる役者らしい役者だと思う。
『ガキ帝国』は、3月に大阪と京都、神戸で先行公開された。大阪梅田の劇場は、リチャード・バートンとC・イーストウッド主演の戦争大作『荒鷲の要塞』(68年)を見た洋画館なので感無量だった。でも、表に立っただけで恥ずかしくて中に入れず、他所の映画館で、バート・レイノルズの『トランザム7000VS激突パトカー軍団』(81年)を見て、気晴らししたのを憶えている。こんな能天気な映画もボクには絶対必需品だったのだ。
(続く)
≪登場した作品詳細≫
『レイジング・ブル』(81年)
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ポール・シュレイダー、マーディク・マーティン
原作:ジェイク・ラモッタ、ジョセフ・カーター、ピーター・サベージ
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、キャシー・モリアーティ
『タクシードライバー』(76年)
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ポール・シュレイダー
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジョディ・フォスター、アルバート・ブルックス
『キング・オブ・コメディ』(84年)
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ポール・D・ジマーマン
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジェリー・ルイス、ダイアン・アボット
『狼たちの午後』(76年)
監督:シドニー・ルメット
脚本:フランク・ピアソン
原作:P・F・クルージ、トーマス・ムーア
出演:アル・パチーノ、ジョン・カザール、クリス・サランドン
『荒鷲の要塞』(68年)
監督:ブライアン・G・ハットン
脚本:アリステア・マクリーン
出演:クリント・イーストウッド、リチャード・バートン、メアリー・ユーア
『トランザム7000VS激突パトカー軍団』(81年)
監督:ハル・ニーダム
原案:ハル・ニーダム、ロバート・L・レビ
出演:バート・レイノルズ、サリー・フィールド、ジェリー・リード
『ガキ帝国・悪たれ戦争』(81年)
監督・原案:井筒和幸
脚本・助監督:西岡琢也,平山秀之
出演:島田紳助, 松本竜介
▶出典:映画.com より引用
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■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している
■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
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■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
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