世界の○○
- 番長プロデューサーの世直しコラムVol.91
- 番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光
サッカーのワールドカップをテレビで見ていて 日本代表選手へのインタビューなどで、アナウンサーが 違和感のある変な言い回しを、いまだに使っているんだなあと思う事がある。
「世界の壁は厚かったですか?」 とか 「世界のサッカーと日本のサッカーの差は?」 とか 「日本のサッカーは世界を驚かす」 とか 「南アフリカW杯からの4年間は世界との差を縮めるための4年間・・・」 とか。
映像だけでなく、雑誌の「Number」の表紙には 「8強激突! これが世界のサッカーだ。」 とまで書いてある。 何回ワールドカップに出とるんじゃい?ジョン万次郎か?と思う。
「世界の○○」 ものすごい雑なくくりだと思う。 大雑把すぎて笑えるのだ。 20年以上前、海外の情報が今みたいに入ってこないし、海外に出て行って活躍する人も少なかった頃のくくり。 近所の事しか考えられない言い回しでもあると思う。 田舎臭いし古いのだ。
「世界の○○」は サッカーの話だけではない。
世界と日本という分け方をする気分はいったいなんなんだろう? と、ずっと前から違和感を感じている。 日本も世界の一部なんだけどなあ。あたりまえだけど。
高校の授業ではなぜか日本史と世界史が分かれている。 両方必修科目なら、まだなんとかわかる気がするんだけど どっちかを受ければいいみたいな選択科目だったと思う。 なんで明確に分けちゃったのか、意味がいまだにわからないが、疑問に思う事も少ないだろう。
子供の頃に図書館においてあった、「日本文学全集」と「世界文学全集」 の分け方とかもそう。 アルゼンチンの文学とミャンマーの文学は確実に違うはずだ。 そういう感じの日本と世界を分けている事がすごくいっぱいある。 実は。
まだ、インターネットが無い時代なんかに、海外に出て行って活躍している人を「世界の~~」という言い回しで呼んでいた事があった。 『世界の坂本』とか『世界の北野』とか『世界の青木』とかだ。 その世界とはどこを指すんだろう? 今となっては、そんな言い方をして何の意味があったんだろう?と思う。
最近は、東京には世界各国から人がわんさかやってくる。 銀座なんかは歩いていると日本語より中国語の方が聞こえてくる。 20年前からは考えられないような状況でもある。 外国から日本に来る観光客は1000万人を突破する時代に入ったそうだ。 オリンピックに向けてどんどん増えていくだろう。これから。
東京に住んでいる日本人以外の人口はいまや40万人近く、人口150万人くらいの福岡市でも5万人がアジアの人たちだそうだ。 加えて都市部だけじゃなくて日本の農村部も国際化が進んでいるのは事実。
逆に、海外で生活する日本人も激増して110万人以上。 大リーグでも結構な数の日本人選手が活躍しているし、サッカーでさえ、ヨーロッパや南米のプロリーグでレギュラーを張る日本人がたくさんいる。 企業はどんどん外に向いている。
そんな中で世界と日本を分ける事が腑に落ちる考え方の人は 日本という国をどこに位置づけたいのだろうか? 日本は特別な国なのか?世界の一部じゃないんだろうか?
世界はどうとかとかそういう言い方は、外国とか外国人みたいな言い方と一緒で、ひきこもりの感覚に近いと思う。
逆の言い方で、同じ事を言っている言葉で「クールジャパン」というのもあるが、これもヤバい言葉だと思う。そんなもんどこにあるんだよ?とすら思う。 自信喪失ぎみの日本人が引きこもってたときにこしらえた物が、インターネットのおかげで最近海外で人気が出た。それを「ほめられてるぞ!自信出せ日本人。」と言っているみたいに聞こえる。
日本と世界を分けて考えるのはもうやめないか?と思うのです。 開かれた日本のいいところは、自然の成り行きとしてどんどん外に向かって出て行っている。 正々堂々としていて特別な事ではないからだ。 別にクールだと言い張らなくてもいい。
自分じゃない誰かと出会ったり交流したりすることがとても大事な事だとすれば、自分じゃない人たちを雑にひとくくりに扱っていたら、誰も相手にはしてくれなくなるだろう。
サッカーの中継でよく使われる世界のサッカー日本のサッカーみたいな言い回しになんとなく、内向きな気分になってきてるんじゃないか?と心配になってくる。 政治的にも、一般の人にも、自信がなくなってきたからって変な右傾化が起きなければいいなあと思う。 普通に世界の中の日本であってくれればいいからだ。
Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。