「映画作ってる時って、孤独やろ。」表現者とは… 先輩に言われて気づいた時

Vol.77
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸氏

1981年の5月。東京の渋谷の外れに特設されたテント小屋で封切り中だった、『ガキ帝国』を余所目に、プロデューサーやフリーの助監督を集めて、急ごしらえで“井筒組”を作り、一気呵成に、新作の準備に取りかかった時の経緯は、前回で書いたとおりだ。

製作会社の東映との約束は8月上旬に初号試写、封切りが5か月先の9月中旬と決まっていただけで、脚本作りもゼロからだし、勿論、キャスティングもゼロからだった。今ではあり得ない突貫作業だった。

60年代末の大阪の不良少年たちの群像、『ガキ帝国』の続篇ではない、現代の寄る辺なき若者たちの“生きざま”と“孤独”。ボクが描きたい世界はただそれだけだった。でも、それだけで映画になるとボクは信じていた。一体、他に何を描くことがあるのだ。29年間、何の定職にも就かず、誰かのために何をすることもなく、何者になることもなく流れるまま生きてきた自分に描けることはそれだけだと思った。仲間の脚本家が初のメジャー作品だと意気込んで仕上げた初稿の冒頭は「シーン1 東映の波マーク」と書かれていた。タイトルは『ガキ帝国・悪たれ戦争』と決まった。身体を張って生きるしかない不良たちが命を賭けて闘う話だから、それでいいと思った。

7月上旬の仏滅の日を選んで決めて、大阪府南部の田舎町でクランク・インした。スタッフの一人が「大安でなくていいですか?」と訊くので、「神も仏も誰もいないところから映画は始まるんや」と言ってやった。製作費は東映の併映番組なので3千万円しかなかった。「クソ暑い大阪でオールロケで撮るしかないな」とプロデューサーに言われたが、「いや、オールロケでいいですよ、スタジオの作りモノのセットはウソっぽいし嫌です」と言い返した。ボクはスタジオで助監督修業をして育った映画屋でもないし、所詮はセットでの撮り方も知らないアマチュアだった。フィルムと脚本さえあればどこででも映画は撮れると思って撮ってきた人間だし、セットなんてどうでもよかったのだ。

話の主人公は“良一”という若者だ。ハンバーガー店でバイトをしていたが、店長と揉めて傷害罪で収監されたり、出所はしたものの町のやくざ集団に絡まれて親友を殺されたり、都会に逃げていけば暴走族と対決することになるそんな流れ者だった。“良一”はボクが中学の時に同じクラスにいた少年の名前だ。その少年はヤクザ者になったと聞いていた。ボクが登場させる人物の名前やそのイメージは、自分の友人や知人を基にすることが多い。たとえ、1カットだけの人物でも、その有様のリアリズムはそんなところから生まれるものだと思っている。だから、どこかにいる(いた)誰かをイメージして当てはめて描く。でも、会ったことも見たこともない小説の中の人物を映像にするのは、ボクにはお手上げだ。架空でしかない人物はどう描こうとウソだし、元から人間に思えないからだ。

『ガキ帝国・悪たれ戦争』の登場人物は、若い役者たちが自分をそのまま出して演じてくれたので、ボクも誰かを特にイメージする必要もなく現場はやり易かった。だが、撮影は休日もほとんどなく、時があっという間に過ぎていった。『ガキ帝国』の時はいなかった新顔の撮影部たちは、「もういい加減に休ませろ」と制作部に文句ばかり言っていたが、ボクは昼休みも忘れて、役者たちに檄を飛ばし、思いつくままにコンテを立ててはキャメラを回し、夜が明けて初めて我に返るようなそんな日々の連続だった。

一か月間、猛暑の大阪でロケ撮影をしてから東京に戻り、六本木のスタジオで音楽録りに立ち会った。音楽は、敬愛するR&Bソウルシンガーの上田正樹さんに頼んでいた。彼は主題歌を作詞作曲して、歌い、ギターも演奏して、一人で黙々とミックスダウン作業をしていた。そして、ボクを見つけるなり寄ってきて、「ラストソングも、ええ感じで上がった思うし、音量任せます」と言った。「上田さん、ほんまに有難うございます」と言うと、「カントクも映画作ってる時って、孤独やろ。オレもそうよ」と優しい声で返した。

先輩アーティストに言われて初めて、表現者とはそういうものなんだと気づいた時だった。

そして、人生の寄る辺なき孤独から救ってくれるもの、それが映画なんだと。

■鳥越アズーリFM「井筒和幸の無頼日記」(毎週日曜13:00〜13:50 生放送中) https://azzurri-fm.com/program/index.php?program_id=302
■欲望の昭和を生きたヤクザたちを描く『無頼』はNetflixAmazonで配信中。 

プロフィール
映画監督
井筒 和幸氏
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。

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