「僕の坂道(後篇)」
何の因果か勢いのみで、小学校の6年間を過ごした福岡市城南区梅林のあの「ざんねん坂」にやってきました(※写真①)。
写真①
ここに来るのは半世紀ぶり。あの頃(昭和40年代)はまだ福岡市には区はなくて福岡市大字梅林と言っていました。市内の中ではけっこうな田舎。近くまでバスは通っていましたが、昼間や休日は2時間に1本あればいいほう。それが人口増加と共にみるみる発展。そして2005年に地下鉄七隈線が開通すると梅林にも駅ができたと聞いていたので街は変わっただろうと覚悟はしていましたが、想像以上の変貌。雷に打たれることがなくても、いきなりのタイムスリップ。ここはどこ私は誰状態に陥りました(うん?「ここはどこ私は誰」の元ネタって能勢慶子でしたっけ?赤いシリーズだけど山口百恵ではなかったはず。ま、いっか)。
えーっと、ここかな?ここだよな。坂の下にあった八百屋さんの場所には大きなマンションが建ち、道を挟んで日々通った駄菓子屋さんは見る影もなく道路になっています。そして肝心のざんねん坂は砂利道はきれいに舗装されそこにはでかでかと対向車注意の文字(※写真②)。
写真②
傾斜も湯島中坂や多摩蘭坂(※とりとめないわ111参照)よりは急ですが、僕の記憶よりははるかに緩やかでまさに気分がざんねん坂。とはいえ、もちろん上まで行ってみました。予想通り昔の僕の家もその両隣もそのまた隣も今風の家に建て替わっていて、面影もありません。表札も知らない名前。家から徒歩30秒、放課後毎日のように三角ベースや缶蹴りやどんさい(田の字のラインを引いてボールをバウンドさせ合う遊び)をした空き地は学生向けのアパートが建っていました(※写真③)。
写真③
ラフォーレ梅林というアパート名にはニヤリとしてしまいました。特に何の収穫もなく坂を下っての帰り道、当時のことを一つ思い出しました。あれは6年生のとき。この坂の途中に2学年下の女の子が東京から引っ越してきました。絵に描いたようなという昭和なフレーズがぴったり嵌る都会の美少女。サラサラの長い髪には水色のリボン、そして白いワンピースがよく似合う子でした。ただ彼女は僕たちと同じ学校ではなく私立のいわゆるお嬢様学校に通ったので挨拶以外の交流はありませんでした。それまで近所に私立の小学校に通う子は一人もいなかったので、彼女は特別な存在。苗字は田村さん。
田村さん一家が近所に引っ越してきたときのこと。晩ごはんのときに亡父が「田村さんの家がうちの場所だったら、坂上田村麻呂だったのになぁ」と意味不明なことを言ったので僕が「何それ?」と聞き返すと「だから田村さん家の場所だと坂下田村麻呂か坂中田村麻呂になるやろ」とのこたえ。その先の時間、何も知らない僕に歴史好きの父から坂上田村麻呂について一通りの説明がありました。そして僕が「それじゃあウチは、坂上門田麻呂(さかのうえのかどたまろ)やね」と言うとすかさず、「ウチの先祖は農家だからそれはないな」と即答。あのときの団欒がハッキリと甦りました。そんなこともあったよな、と田村さんの家を探しましたが見つかりません。元々転勤族の家だったのでとうの昔に転宅したのでしょう。
ざんねん坂を下りて駅に向かう途中、妙に坂上田村麻呂のことが気になります。頭の中で「さかのうえのたむらまろ」が早口言葉のように繰り返されます。そもそも何をした人だったかな?電車の中、スマホで調べると、あるわあるわ(当たり前か!)53万件の関連事項が出ました。801年日本初の征夷大将軍、802年東北の地に胆沢城を803年志波城を次々と造営、鬼さえ恐れた大男、東北の雄・阿弖流為との友情、28歳で貴族の仲間入り、さらにはおじゃる丸のモデルや坂上田村麻呂黒人説まで興味津々なことが次々と出て来ます。すごい男がいたもんだです!
あー、これはもう行くしかないかなぁ。好奇心がムラムラとわく僕の悪いクセ(ここはもちろん杉下右京の口調)。ここまでくればせっかく飛び乗った飛行機(乗り掛かった舟を現代アレンジ)ですし、人生成り行きそのまま東北胆沢城跡に向かいます。なかなか遠かったです。東京から東北新幹線で一ノ関へ、そこから在来線に乗り換え水沢駅で下車(※写真④)、駅員さんや観光協会の人に尋ねたのですが、歩きはムリとのこと。タクシーを呼んで着いた頃から雪が舞い始めました。
写真④
はぁ~、何にもないとこだな~(※写真⑤⑥)。
写真⑤
写真⑥
すぐ近くの奥州市埋蔵文化財調査センターでビデオや資料を見せていただき多少詳しくなりましたが、謎の多い人物。日本中に由来の地があり伝説が残っています。なぜ大河ドラマにはなっていないのか、う~~ん、そもそも実在したのかなぁ等々、色々想像の尽きない帰り道。ふと新幹線の窓の景色を見たらきれいな虹が出ていました(※写真⑦)。なぜか田村さんの白いワンピース姿をまた思い出しました。
写真⑦
ところで、今回小学校時代の実家の場所を訪ねたのですが、もう一箇所その近所の思い出の地を見に行きました。それは僕が10才の夏、自転車で信号無視をして交差点でトラックに撥ねられた場所。当時痩せっぽちで身軽だった僕はきれいに宙を舞い道路脇の田んぼに着地。怪我ひとつなく無事だったのです。
写真⑧
なぜか気になってその場所に行ってみて驚きました。道路が拡張され、田んぼだった場所にはファミリーマートが建っています(※写真⑧)。今ならファミマの壁に激突して終わっていたかも、という話はまたの機会に。
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