映像2018.02.28

むずいははずくて口に出すのがむずい

とりとめないわ 第30話
とりとめないわ 門田陽

先日。バレンタインデーだったので2月14日です。この日僕は出張で宮崎県の都城市にいました。そこでのこと。ランドセル姿の10歳くらいの男の子が二人でガードレールの上でバランスを取りながら飛び跳ねて「スロープスタイルごっこ」をやっていたのです。スロープスタイルは前回のソチオリンピックから正式種目になった新しいスポーツですが、昭和生まれの僕たちにはなかなか馴染めない気がします。カッコイイや面白そうの前に危ないだろうと思ってしまうのは単純に老化現象なのでしょうか(笑)。

いつの世も子どもたちは時代の流れの先端にいます。僕たちだってそうでした。1972年、札幌オリンピック一色の冬。笠谷、金野、青地のいわゆる日の丸飛行隊がジャンプのノーマルヒル(あの頃は70メートル級と言っていました)で金銀銅メダルを独占したあの冬です。大人の男たちがこぞってがジャネット・リン(フィギュアスケートのアメリカ代表)に夢中になったあの冬です。当時小学校3年生の僕たちは学校の廊下の手すりをジャンプ台に見立てて「飛んだ、決まった!!」の笠谷に成りきっていました。おそらく全国で同じ光景が見られたはずです。学校はすぐにジャンプごっこを禁止にしました。禁止されるとますますやりたくなるのが子どもの習性。そしていくつかの学校で怪我の報告がされ、階段の手すりの途中に突起物が取り付けられてジャンプができなくなりました。冬のオリンピックのたびにあの年のことを思い出します。オリンピックの力は凄い。

翌日2月15日。宮崎ブーゲンビリア空港(この突っ込みどころ満載の名前についても色々書きたいけど)から東京に戻ったのですがそこで見た垂れ幕にもオリンピックの力を感じました(※写真①)。それは出発ゲートに向かうエスカレーターの横に下がっていたのですが、まずはその数の多さ。宮崎県は色んなことを祝っています。その一番右側にできたてほやほやの「祝銀メダル高木美帆選手」の幕があります。高木選手がメダルを取ったのはわずか3日前ですから、それこそスピードスケート並みの速さで作ったことでしょう。それはさておき、うん?高木選手って宮崎出身でしたっけ?とよく見ると「合宿地宮崎市」とあります。いやいやそこまでやると今頃きっと「祝金メダル羽生結弦選手(修学旅行が宮崎市)」くらいはやりそうな勢いです。

写真①

宮崎はあたたかいです。この日も気温は昼間には15℃を超えていました。そして月並みですけど人があたたかい。この地に僕はお世話になっている方々や仕事仲間が多いので

年に数度お邪魔していますが、イヤな思いをしたことがありません。都城の駅前でコンビニの道を尋ねたら男子高校生が店の前まで連れていってくれる土地柄です。まだ昭和の原風景のようなところが多く残っていて日本の田舎オブ・ザ・田舎のひとつだと思います。

そこで話は最初のランドセルの二人に戻ります。ガードレールの上で何度もバランスを崩しながら彼らは「むずかぁ」と叫んでいました。「むずかしかぁ」ではなく「むずかぁ」でした。ショックです。「むずかぁ」は東京の子たちなら「ムズッ」だと思います。僕はこの「ムズい」や「ハズい」や「キモい」「キショい」等の平成生まれ(正確には昭和らしいけど)の形容詞の省略語が苦手です。しかし都城の子どもたちが「ムズい」や「ムズッ」ではなく九州独特のイントネーション(方言)で「むずかぁ」と言うのを聞いたときに受け入れようと諦めました。 「ムズキモハズい撲滅委員会」も白旗降参です。平成30年、ムズいが完全に市民権を得たと感じた瞬間でした。

ところで、宮崎から帰って2日後。羽生選手宇野選手の金銀ワンツーフィニッシュにお茶の間が歓喜した日の夕方。有楽町の駅前のパチンコ屋さんのお祝いボードが金メダルの羽生選手ではなく銀メダルの宇野選手(※写真②)でチャーミングだなと思った話はまたの機会に。

写真②

Profile of 門田 陽(かどた あきら)

門田陽

電通第5CRプランニング局
クリエーティヴ・ディレクター/コピーライター
1963年福岡市生まれ。
福岡大学人文学部卒業後、(株)西鉄エージェンシー、(株)仲畑広告制作所、(株)電通九州を経て現在に至る。
TCC新人賞、TCC審査委委員長賞、FCC最高賞、ACC金賞、広告電通賞他多数受賞。2015年より福岡大学広報戦略アドバイザーも務める。
趣味は、落語鑑賞と相撲観戦。チャームポイントは、くっきりとしたほうれい線。

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