『性春の悶々』

Vol.001
井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏

1975年の春、22歳の青二才だったボクは読んだこともない五木寛之の『青春の門』が原作の封切り映画のポスターを前に思わず感動し、一瞬にして案が閃くのだった。

「よっし、俺らの作るこのピンク映画のタイトルは、あんな真っ当な青春話じゃないし卑猥なことばかり思って悶えてる田舎のチンピラが退屈な現実の門から脱出する話だから、『性春の悶々』ってどうや?

大手配給の古臭そうな文芸作品への皮肉になるしオモロいやん」と、集まった制作仲間たちに有頂天で説くと、助監督兼小道具集め役のM君や撮影担当のS君(二人とも当時は同志社大生)が「だったら、初めに“いくいくマイトガイ"って副題つけよう」と乗ってくれた。小林旭の「渡り鳥シリーズ」に憧れた青年が東京に行く昭和30年代の物語だからだ。こうして、高校の同級生らを巻き添えにした映画撮影が問答無用に始まったのだ。

思い出す度、あの頃の自分が痛々しくて可哀想で愉快でならない。22、3歳のアメリカンニューシネマが好きなだけの素人たちが180万円ほどのお金を集め、手に触れたこともない西ドイツ製アリフレックス35ミリカメラで、ツァイスレンズのピントや絞り操作もおぼつかないまま、成人指定にしろ劇場用映画を東京の配給会社からも誰からも頼まれてもいないのに、よくも作る気になったと我ながら感心してしまう。

でも、詩や小説を書いて人生を模索する手間より、フォークギター片手にライブハウスをドサ回りするより、“映画作り"という、待ち構えている人生で恐らく最も厄介で悩ましく、最もスリリングな芸術行為こそがボクには一番向いているし、映画に魂を売り渡してみようと決心したのも確かだ。

誰に頼まれることなく始めるのが芸術だし、新しい物語、新しい映像感(ルック)、新しい伴奏音楽、どこにもないニューシネマを誰かが望んでいるに違いないと夢想した。

べトナム戦争が終結し、日本でも熱を帯びた思想の時代が終わると、今度は「モーレツからビューティフルへ」と乗り換えるしかなくなったか、ロック歌手が「氷の世界」だと嘆き声で唄い、一人一人が次の虚構を探し求めていた。

※ 1970年の高度成長期に展開された富士ゼロックスの広告キャンペーンコピー。

大人から「シラケ世代」と烙印を押されていたボクらも「うるさいな、シラケさせたのはお前ら大人だ」と見返してやりたかったからだ。映画界に何のコネクションもない場所から、ボクは気の合った仲間と“新映倶楽部"と名付けた集団で、1時間の間に性描写が何回か現れるピンク映画で先ずは社会に挑んでみたのだ。

父親から「必ず返すから」と80万円ほど借り、仲間も残りを集めてくれて、中学の恩師に紹介された大阪のニュース映画社(当時は劇場用のニュース映画を作っていた)の伝手(つて)で、プロにしか貸し出さない機材屋から35ミリボディと広角と望遠の基本レンズ一式を借り、業者にしか売らない代理店からイーストマンカラ―フィルム(ほとんどNG撮影は許されない1時間半分)を買い、大阪郊外のミカン畑でカーセックス場面をいきなり撮り始めたのだ。激流に浮かべた筏(いかだ)の上にいるようで、今にも砕けて沈没しそうな現場だったが、芸術にアマチュアもプロもない、誰でも最初はアマチュアだ、そう思って無我夢中で廻していると2週間で撮り終えた。

仕上げ編集の方策もよく知らなかったが、京都大映スタジオを人づてに素人特権で安く借り、完成させた。頼れる先達を見つけたら必ず映画は出来上がる、そう信じていた。

この若者らしい珍奇な映画は週刊誌で取り上げられ、東京の配給会社に売り込むと、翌年、新宿の小さな映画館でかかった。技術の幼稚さが目立ったが、最初はこんなものだと思った。

何でも一度やってみればいい。2度目は用心するし、3度目はまた冒険できる。こんな芸術は止めるわけにいかないとその時、思ったものだ。(続く)

井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU

■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。


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