『映画はどうしておもしろいのか。』
- Vol.006
- 井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏
吉本興業の辣腕プロデューサーだった木村さんから、「古い新喜劇じゃなくて、もっとフレッシュな青春劇を、ぜひお願いします」と励まされて、ボクは久しぶりに実家の座敷机に向かって、400字詰め原稿用紙に『物語』を書き綴っていった。昔から、映画のシナリオライターたちは縦20字、横10行の200字詰めの“ペラ”を使ってきたものだが、ボクは、今回はテレビ台本を頼まれた訳だし、あえて、横20行で話の流れが見えやすい400字詰めに話を書き並べていった。文豪作家の小説や随筆も、テレビの台本もほとんど400字詰めが使われることが多い。それは、書き進めてきた流れ、その文体を返す返す見直し戻るために横に長い用紙の方が都合がいいからだと思われる。でも、映画の脚本家たちは、思いつくまま、10行を一気に書き飛ばし、すぐ次の用紙に書き込んできたものだ。なぜ、10行詰めのペラ稿を使うのか。書いてきた流れを見返すのに不便だ。前の頁ペラを手元に置かなきゃならないし。でも、映画の脚本は台詞のたった一言、「うわあっ!」だけで一行使うし、一文字の違いでも気分や意味のニュアンスが違うと、もう場面がしっくりこなくなってしまう。だから、3行書いただけで、ライターは「やっぱり、少年院を出たばかりのチンピラがこんな説明的で丁寧な言い回しするわけないか」と思い直すや、潔く、用紙を丸めて屑カゴに投げてきた。消しゴムで消して書き改めたらいいという話じゃない。ペラ稿はダサくて冗漫な台詞やリアルでないト書きのポイ捨て用だった。故・勝新太郎は名優であり、脚本家でもあった。シナリオの中の女が男に口説かれてる場面なら、女「だって今夜はもう遅いし、アタシも・・・」と鉛筆で書いてから、アタシも、を消しゴムで半分薄く消して、役者にそのペラ稿を手渡したそうだ。言葉にするかしないかの呟きごと、聞こえるか聞こえないかのニュアンスを消しゴムを使って表わしたそうだ。
ボクの方は、消しゴムで微妙な消し方まではとても出来なかったけれど、初めてのテレビ台本デビューを果たし、それはキャメラアングルや画面のワイドレンズやロングショットなど、ボクの期待していたモノとはほど遠い他人様のディレクションによるものだったけど、吉本の若手漫才師大放出のスペシャルドラマとして関西地区限定でオンエアされた。
半年間続いたテレビのお祭りごとも終わってしまうと、途端に、ボクはまた「映画」が恋しくなって、次なる企画を模索し始めた。上京したついでに、スケールの大きな映画が見たくなり、日比谷の劇場に入って、千数百席もある暗闇の大空間で、待ちに待ったフランシス・コッポラ監督の労作、「地獄の黙示録」と対面した。フィリピンなどでの一年半にも及ぶロケ撮影が苦難の連続だったらしく、世界中の映画ファンが注目していた「戦争とはなんだ」という巨編だ。ベトナムのジャングルを背にして、米軍ヘリコプターがパタパタパタパタとローター音を不気味に鳴らし、大画面を何度も通過する。ザ・ドアーズが「♪ ディスズジエンド~」、世界はもう終わりだと切なく唄い奏でるその巻頭から、いきなり、地獄の一丁目に引きずり込まれる気がして、座り直していた。もう逃げられないぞ、覚悟しろ、と言わんばかりのコッポラ画像に久しぶりに興奮した。ビットリオ・ストラーロの絵画のような自然光主義の画像が圧倒的だった。コッポラの前作である「ゴッド・ファーザー」の撮影者ゴードン・ウィリスの陰影の濃さとはまた違う生々しいリアリズムが、まさしくこの世の終わりに燃えて消える火炎のような感じがして、胸に迫った。物語はベトナム戦争の最中、メコン川の上流のどこかに隠遁して独立王国を作っている元米軍グリーベレーの気の狂った大佐を暗殺しろとの指令を受け、大河を遡っていく哨戒艇の兵士たちの戦争日記みたいなもので、実は、場面、場面はそれぞれが狂気とサスペンスに満ち満ちていてオモシロかったのだが、ドラマ展開の流れが悠長すぎて、途中で疲れてしまった印象だ。でも、2時間半の地獄によくぞ耐えたものだ。確かに、アメリカのベトナム介入戦争への欺瞞以上に、人間どもの偽善が描かれていた。見終って、お腹がすいて仲間とステーキを食べに行った。
製作費が予定より大幅に膨れ上がり、100億円近くかかり、世界中の観客が二度見ないと製作金が戻らないと聞いた。だから、ボクも二度見て協力してやりたく思った。
今までに作ってきた250万円のピンク映画の何千倍もの映画。いやー、まだまだ映画人生、先が長いなぁと、ステーキ肉を頬張っていた。 よっし!これで腹ごしらえは済ませた。ガソリンは満タンになったんだ・・・。この80年の翌月4月から、27才だったボクは4才下の相棒の脚本家と共に、いよいよ「ガキ帝国」の準備を開始することになる。
井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU
■生年月日 1952年12月13日
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。