『映画作りは至難の技。それは作り手、作家の思想、思惑の表現場なんだ』
- Vol.007
- 井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏
自分の部屋や馴染みの喫茶店でエッセイやコントの台本は書けるけど、映画の主人公や脇役の動作(行動)を「ト書き」として書き、「セリフ」を書いても、シナリオというのはしっくりこないものだ。シナリオを書く時は脚本仲間らと(いや、別に脚本家でなくていいし、話の原案者や、あるいは三文小説の原作者も呼んで)旅館に籠って書くことが必須だった。昔の先達ライターがやってきたとおり、ボクらも名の知れた都内の旅館に籠りたかった。新宿区神楽坂にある「和可菜」なんてメジャー松竹の先輩作家たちが定宿にして入っている所は畏れ多かったし、何が松竹作品だコン畜生めと反抗心も先に逆立って行く気にはならなかった。小津安二郎(おづ やすじろう)と相棒の野田高梧(のだ こうご)の脚本家が二人でスキ焼鍋まで持ち込んで1か月間も籠って映画「麦秋」を仕上げたという湘南の「茅ヶ崎館」も値段が高そうだし、あえて逗留する気もしなかった。でも、どこか籠らないと仕事にならないので、杉並区荻窪の古い旅館を取って1週間、仲間らと過ごして、シナリオを書いた。
メジャー東映からの初めての映画の依頼があったからだ。それは映画「ガキ帝国」が封切られてすぐ、東映の本部長から「本社に来て貰えるかな」と電話がかかって来て、銀座に出向くと、『アンタが名を売ったあの「ガキ帝国」の続編みたいなものを作ってくれないか』という発注だった。「続編ですか?」とこっちがマジメに返すと、「いやいや、あんな朝鮮人の不良どもが出てきて朝鮮語を喋るようなものは要らないんだよ。わが社が欲しいのは、あの手の不良少年たちがケンカに明け暮れるような話だよ。『ガキ帝国』というタイトルだけ続編みたいに使いたいんだよ。分かるだろ?」だった。どうしようもないメジャー配給会社の東大出身の本部長らしい言い方だった。在日外人の人権の話も絡んだ青春映画を撮ったつもりなのに、人権無視の続編の依頼にはさすがにムカムカしたけれど、こっちも新進気鋭の売出し中の活動屋だ、売られた喧嘩は上等だ、どっこい受けてやろうじゃないかと居直って、「分かりましたよ。意気のいいシナリオを仕上げますよ」と啖呵を切ったのだった。東大出の本部長が「10日間ぐらいで脚本上げられるか?」と追い立てるように言うので、「はい、すぐにかかりゃ十分ですよ」とこっちも勢い余って二つ返事をしてしまったのだ。
映画の脚本は早くて2カ月間、通常は半年間はどうしてもかかるものだ。それを思いつくまま、こっちも引き受けてしまって、話を旅館に持ち帰ると、相棒のシナリオライターが、「なんでそんな安請け合いをしてきたんですか?」という顔をしていたが、でも、その夜から早速、シナリオ書きに取りかかるはめになったのだ。一夜目は筋書き(ストーリー)について、それぞれが今まで見たり聞いたりしてきた今までの自他の人生の与太話の告白大会だった。人の体験した本当の話が脚本に活かされるのだ。空想やウソの話ではロクでもないし、映画にはならない。小説もこれは凄いというのは「ウソの塗り固め」でも「妄想」でもなく、実は、その作家が体験したか、知り得たかの真実の積み重ねだ。小説を読むとああこれはウソだなと分かるのは小説ではないのだ。何県で育ったチンピラ少年が何をしでかして逃亡して、逮捕されるまで何年、どこで暮していたのか、何年して少年院から出てきたのか、事細かな他人の青春の事実を調べ上げないと映画シナリオにはならないのだ。旅館に集まった脚本を練る仲間らの青春時代の失態、醜態、変態、非常識、稀にあったかも知れない名誉栄光の欠片を語るだけ語り合って、一夜目が過ぎ、二夜目もその続きで、夜明けまで酒盛りをしていた。でないと、オモロいエピソードなんて上がりっこないぞと先輩に言われたようにしたのだ。漸く、三夜目に相棒のメインライターがファースト・シーンを書き始めたので、原稿用紙を覗き見すると文字がしっかり書かれてたので思わず笑った。「S-1 東映マーク。岩間に白波が砕け散る―」だって。なんだよ、これこそ配給会社への挑戦か。
我ら、新進気鋭の若手たちは初めてのメジャー映画へ、愛をこめて挑み、ここまで意気込んだのだ。何をどう描くのか、主人公の仕草、台詞はどうリアルに言わせるか。絵空事じゃなく生々しい人間の生態を書くことがプロになる登竜門だった。
一作目の「ガキ帝国」の裏話の前にそれを飛び越え、「ガキ帝国・悪たれ戦争」のことを書いたのには訳がある。この年末12月1日、じつはビデオにもDVDにもなっていない幻の東映版が一夜だけ、都内上映される運びになったからだ。この機会に是非、ご来場を。もう二度と見られないから、この場を借りて。
井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU
■生年月日 1952年12月13日
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。