『映画製作は命がけだ。そして、自分の作りたいものを作る、それが作品となる』
- Vol.009
- 井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏
1980年は、ボクら“井筒組"にとっては忘れがたい年だ。ボクは28歳になったばかりだったが、人々がそれぞれ個人の「虚構」を追い求めていた70年代の、まさにその総決算的な、映画作りへの夢と野望が叶う「革命的な年」でもあった。大げさに言うわけではないけど、ほんとに武者震いが起こっているのが自分でも分かった。何としてでも、自分が夢に見続けた企画、「ガキ帝国」を撮り上げ、ヒット&ランを放って、古い映画界をビックリさせてやりたかった。映画を撮ることは、今まで誰一人も考えつかなかった自分の思いどおりの物語をひたすら描くことなんだと確信した。そして、この思いは今も変わらない。
大阪の吉本興業の木村さん(元常務)に企画を伝えて、協力を得ながら、「暴走族の端くれ上がりですわ」と自嘲気味に言ってくれた島田紳助と、松本竜介コンビに出演を依頼し、「明日を煩うことなく今日を生きる」不良少年たちの喧嘩三昧の日々を年内に完成させるために、大阪のその月刊情報誌を作る小さな出版社から製作金の半分の500万円の出資を勝ち取るつもりだった。身を粉にするとはこのことかと思ったが、そこの少し年上の代表者には説得に次ぐ説得を重ねた。「今のへタレの若者たちの生態なんか描くつもりもないんや。胸熱く、心躍った68年頃に寄る辺なき孤独を生きていたヤンキーの奴らの、これは叫びなんや!分かってよ!」と、繰り返した。もうこれ以上新しい言葉は思いつかないというくらい、喋った。その年の6月頃になって、「じゃ、とにかくちゃんとしたシナリオを書いて一度見せるから」と代表者と談判し、ボクは仲間ら2人と、紀伊白浜の白砂のビーチが見える安い旅館に、シナリオを詰めに行った。
主人公はあのヤンチャ漫才コンビの二人だけど、もう一人、本当の主人公(物語の背骨)を作り上げないとアカンぞ。話はそこから再燃した。60年代末期の在日朝鮮人の不良たちは関西じゅうにいたんだ。やっぱり主人公はそいつだろ。名前は何にしよう。彼らには通名がある。「張本くん」は響きがちょっと強過ぎるか? じゃ、「金田くん」でいいか。「張本」も「金田」もプロ野球のおっさんを連想させるけど、まあ通名はそんなもんか。なら、呼び名は「ケンちゃん」でどうだ。耳に馴染みやすいだろ。その連れ(仲間)の“チャボ"が岡山の特別少年院(特少)から出てくる予定の“リュウ"のことで問いかける。
「おい!ケン、少年院から出てくることなんて言うねん?」
「そら、退院やろ」。
ボクらは大阪らしいギャグ満載の台詞を気の向くままに言い合って、リュウ役は紳助に、竜介の方はチャボ役で当て書きして、サッカーと喧嘩とパチキ(頭突き。関西弁ではパッチギとは正しく言わず、こう呼んでいた。関東ではチョーパンか)、そんなことしか頭にないヤンチャ小僧たちのそれぞれのキャラ作りから整えていった。“リュウ"は向こう見ずの親分肌のアホか。チャボはその弟分でいつも「金魚のフン」のようにリュウについてくるアホ。ケンは徒党を組むのを好まない一匹狼の在日韓国人のちょっと賢いけどアホ。“明日のジョー"はリュウと一緒に特少から出た後、大阪キタで梅新会(実在した集団の梅田会のイメージ)の二代目を取ることになる本名は高常承という朝鮮学校出身の血気盛んな悲しいアホ。ミナミの繁華街を根城にしていた「ホープ会」の口先だけのアホなボスの“ハットリさん"。その副会長を名乗っていた(梅新会に潰されて不良をやめて大阪府警機動隊員になる)“ポパイ"という気弱なアホ。同じくミナミでオモチャの改造銃まで持って虚勢を張っていた「鉄砲隊」のリーダー“ゼニ"のアホ。夜中に筏に乗って鉄屑を盗みにやってきては売りさばいて生きる“アパッチ"のアホたち。リュウとチャボが新結成する「ピース会」の預かりになる鉄砲隊の残党のアホ顔の“タカオ"。どいつもこいつも、そのキャラと出身、経歴を思いつくまま話し合ってるだけで、もう愉しそうな映画が出来上がる気がした。
それにしても、物語の背骨である孤高のケン(金田健一)役を見つけなければならないし、その少年には大阪弁と韓国語を使い分けて喋らないとリアルじゃないし、その時は字幕スーパーを出してアジア的な映画にしようとか、課題も山盛りだった。よっし、ケン役は意気のいい本当の在日コーリャンの新人役者を探そう。他の少年たち100人余りはオーディションで見つけるしかない。粗いけれど形になりかけたシナリオ準備稿を、その出版社の代表者に読ませてみると、「まあ、こんな奴らがどう受け止められるかはまだ見えないけど、映画製作していっていいよ」と言ってくれた。配給会社ATGと1,000万円の製作金を折半で出してくれるなら、これで決まりだ。大阪の街で命を懸けて撮影してやろうじゃないか。ボクらは、製作スタッフを集め、道頓堀の外れにスタッフルームを開設した。その代表者が「毎日新聞にコネがあるから、この熱い映画作りに参加できる若者を集めるオーディション広告を出すよ」と知恵をくれた。募集してきた中には、まだ高校生の木下ほうかや徳井優や、大学を出たばかりの阪本順治が混ざっていた。夏から、選ばれた若者たちで場面リハーサルを始める予定だったが、まだ肝心のケン役が見つからなかった。
(続く)
井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU
■生年月日 1952年12月13日
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。