初めて、ボクは病んでしまった。自分が作りたい映画の発想がまるで湧いてこなくなったのだ
83年の春から、東宝とキティフィルム共同製作の「みゆき」は夏のロケに向かって動き始めた。しかし、熱狂的ファンがいる「マンガ」の実写を任されるなんて考えたこともなかったし、少女と少年の見たこともない別世界をどう作り上げたらいいものか、ピンとこないままに勢いだけで引き受けてしまったボクは、いつになく悩んでいた。
「誰かが勝って、誰かが死ぬでもなし、道徳的なオチもいいんだ、切ない10代の青春モノになればな・・・そうだろ?」と製作者が言う一方で、「原作ファンの精神安定剤なんて作ってられませんよ」と、仲間の助監督たちが言うそのはざまで、さてどうしたものか、結局、判らなかった。
「血のつながっていない義理の妹への、恋だか、愛だか?なんかそんな感情」が入り混じって話が進んで、最後に独創的なオチがやってくればいいってことか? そんなんで映画になっていいのか? 血の繋がった実の妹は解っても、義理というのは他人だし、だったらどうあろうといいのか?
でも、高校生のガキの話だし、高校時代の女友だちと茶店で戯れていたことを思い出せばいいのか? 東京の山の手の住宅地に育って、父親は商社の仕事で海外に赴任中で、その留守番をしながら、家政婦さんと気ままに暮した経験などあるわけもなし、そんな家庭環境を思い浮かべろと言われてもどうにもならなかった。
結局、撮影は吉祥寺周辺の上品な一軒家を借りきってロケをするのだが、まあ、舞台設定の根本的なイメージが追いつかなくなってきて、そうなると、二人の「みゆき」という少女に挟まれて、あっちのみゆきさんに気を遣い、こっちのみゆきちゃんに一喜一憂する主人公像も(結局、撮影では18才未満の少年だった「ションベンライダー」の一人を演じた永瀬敏行がキャスティングされたのだが)、ボクにはその姿かたちが皆目、イメージできなくなってきて、すべてが雲をつかむような空虚な話に思え、そんな自分の想像力のなさに苛立ってきて、こんな不器用な自分じゃなかったのにとまで思いつめるようになり、頭の中が、そんなことばかり空転するだけで、若いシナリオライター女史には、的確な改訂アイデアも出せなくなって、シナリオ作業は止まってしまうわ、マンガの舌っ足らずの吹き出し台詞など、どこがオモシロいのか分からなくなるわ、他の登場人物のキャストイメージなど何一つ湧かなくなるわ(土台、元から東京の芸能界の若い俳優なんか誰が誰だか知らなかったのだが)、おまけに、渋谷の製作会社には、パンタロンズボンのジャニーズの社長が若い少年たちを十人ぐらいの集団を連れて挨拶に現れるわ…。
でも、こっちはまったく脳が動かなくなっていた。明日、衣装合わせをしますと聞いただけで偏頭痛がしてきて、息が詰まりそうになったので、撮影所のスタッフルームの二階の窓を開くと、ついでに、今そこから飛び降りようとする別の自分を空想してみたりと、これは、自分の中にとんでもない壊れ始めた自分を抱え込んでいるなと思ったのだ。
日活の撮影所から急いで家に戻りたくなったので、タクシーで駅まで行ったはいいが、京王線の切符の買い方まで分からなくなるようなパニックまで襲ってくる始末だった。これじゃ、映画準備どころじゃないな。どうしたらこの難しい仕事に向き合えるようになるのか、映画の作り方が分からないくらい壊れてしまったのか。自分を修理しない限りダメだと思い直し、助監督くん(当時、セカンドだった平山秀幸)に付き添ってもらって、女子医大病院の精神科に駆け込んだのだ。
でも、精神科の50代の女医さんの前に座るなり、そのモヤついた焦燥や絶望感が、半分、どこかに飛んで去ったような気分になったのも意外だった。女医さんが(昔、ドラマで見た連続ドラマの「肝っ玉母さん」役の京塚昌子という女優のように)太ってふくよかだったからか。
問診しながらカルテを書き終えた女医さんが「その、クランクインって何語ですか?」と聞いたので、「いや、日本の映画界だけの造語です。無声映画の時代にキャメラのクランク(取っ手棒)を回すというとこからです」と説明したら、「ああ、それなら、この苦手な仕事のクランクインの期日が迫ってきているので、ちょっとおかしくなってるんです」と言われた。「じゃボクはやっぱり病気ですか…?」と聞き返すと、「そう、気から来る病気です。気を晴らすことなく根を詰めたり、ちゃんと食べずに飲酒と夜更かしが続いてるでしょ、りっぱな『離人症』という病ですよ。健全な精神を宿すには、先ず、身体を健全にしましょう」とニッコリされた。
「どうしたらいいですか?クスリで?」と言い終わらないうち、女医さんは「気が入らない原因は、その映画ですから、一、二ヵ月ほど仕事を忘れて何も考えずに休みましょう。補助する安定剤は出しますが、あくまで補助です。気休めです。とにかく身体の循環を戻さないとね」とまたニッコリとされた。笑顔でまた半分、正気が戻った気もしたが、偏頭痛は止まらない。「ええっ!あと2週間したら撮影に入るんですけど…」と頼むと、「あー、それはダメですよ。身体をちゃんと戻さないと仕事に影響します。映画もそうでしょ、精神病も科学です。唯物的に考えて下さい」と言われた。
あの女医さんが、肝っ玉母さんじゃなく、ロマンポルノの女優みたいだったら、「離人症」はもっと進行していたかも知れない。処方された安定剤を一か月分もらって、翌日、言われた診断の通りを製作会社に報告しに行った。
すると、プロデューサーは「それなら分かったよ」と頷いてから、横で心配していた制作主任とチーフ助監督に、「よっし、クランクインはあと3、4日延ばそうか。各部に伝えて調整してよ」と言い放った。プロデューサーの鬼のひと言で、スタッフは諸準備を再開した。ボクの頭の中はまだまだ再開しなかった。酒も飲まずに、家に帰って、便所でシナリオの一場面を空想してみても、このやり取りはアップがいいのか、ロングショットでいいのかさえ、浮かんでこなかった。これ以上、気が詰まるとまたパニックになると思って、作品のことはすべて忘れ、日々、食べて眠ることだけにしばらく徹した。
女医さんのカルテ違反のクランクインが近づいても、まだ脚本のページを開く気になれなかった。おい、もう世の中、真夏だぞ。湘南七里ヶ浜の炎天ロケが始まるんだぞ。どうすんだ。ボクには、1日3度の抗鬱剤だけが味方だった。
(続く)
■生年月日 1952年12月13日
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。