『精神病になろうが映画は完成し、試写が終ると、「及第点だね」と製作者から言われた』
「ロケ中でも、忘れずに一日3回、抗鬱剤を飲みましょう。身体のバランスを元に戻すには2ヵ月かかります」と医大の女医さんに言われて、ちょっと気は持ち直したものの、この難物、「みゆき」をこれからどう撮っていけばいいものか、その不安は消えてくれなかった。
プロデューサーがクランクインを何日か延ばしてくれたが、出来れば、その健やかな女医のおばさんを特別に雇ってもらって、現場のカメラの傍で話し相手になってほしいところだった。
「気を晴らさないから、身体のリンパ液のめぐりもおかしくなるんです。自分が自分でないように思う『離人症』は大変な病気です。先ずは、身体を休ませてから」という女医の言葉遣いを、一時間おきに思い出すように心がけた。
アップもロングショットもどうでもいいや、いや、どうでもいいことないが、どう思いつこうがどうでもいいんだ。気の向くまま撮ろう、気のいかないことはやらなければいいんだ…。撮影中もそう思うと、適当なイメージが浮かんでは消えた。適当でも霧のように消えたアイデアなら、無理に拘るな、撮るな、発想が出るまで待てばいいことだ。そんな、いつもの感じで「思いつきの撮影」が進んだ。
制作部の一人が「カントクのデタラメ演出は昔からですか?」と聞くので、「そうや、ピンクの2本目までは撮影コンテを立てて、台本に書いてたんだけど、その通りに撮れたためしがなくて、もうどうでもいいや主義になって。ふり回して悪いな」と答えるのが精一杯だった。
「日活の監督なんか台本にびっしりコンテ割りの線が引いてて、午前中の予定が見えるんですが、カントクのその台本の落書きは何なんですか?誰も判らんですよ。それも楽しいですけど」と冷やかされた。「この書き込みは信用しなくていいの。オレの最初の思いつき。これを裏切っていくのがオモシロいんよ」と。そんなやり取りをしてると、「離人症」が少し遠のいてくれたかと思えて少し安心できた。
今ではこの「思いつきのデタラメ撮影」は井筒組流の習慣になった。まるで役所の青年みたいに前日から準備をしてきた若いスタッフたちには迷惑だろうが、例えば、ロケ当日、イメージが浮かばない時、撮影日を変更アレンジできるかと制作部に確かめたこともある。でないと、オモシロい映画なんて仕上がるわけがないからだ。ロケハンで決められた場所がどうも気が食わないこともある。だから、なるべく、ロケハンには同行しないようにして、制作部とキャメラマンのセンスに任せている。その方が当日、最高に新鮮なイメージでデタラメ撮影に臨めるからだ。
撮影が夕方になると予定していたようにキツい頭痛に見舞われたが、その時は、好きなジャムパンとコーヒー牛乳を、助監督に買ってきてもらって、クスリを併用した。4時前にはもう色温度が変り始める。フィルム撮影は時間との闘いだ。こんな時、カメラが2台あれば楽だろうなと思ったが、制作部にそんなお金はなかった。(A・Bキャメラが揃ったのは、12年後の「岸和田少年愚連隊」からだったかな)
吉祥寺の閑静な住宅街の、花屋の前に主人公のみゆきがいると夕立ちになるシーンもあった。そんな愛くるしい場面など、もう生涯で二度と撮ることはないかと思ったが、特機係が大きなタンク車まで用意してきたので、進行に従った。すると、そのタンク車が撮影所から夕陽に間に合うように急いだものだから、タンクに水を溜めずに空のまま走ってきて、坂道で空だと気づいて引き返していったと一報が入り、皆で笑っていた。
もう夕立は上がった設定でいいし、路面を濡らしたら済むと思ったのでそうした。判断がまたちょっと正気に戻りかけているので安堵した。
夜の浜辺での大撮影も思ったより愉しく無心になれた。主人公の少年が浅瀬に入ると、腰の回りに無数の夜光虫たちが光っているのを見つめる15秒のタイトルショットだった。夜光虫にみせた豆電球を何十個と仕込んだ6畳ほどの井桁の木枠を海に沈め、その光があちこちでゆらゆら揺れてるように、浜辺から井桁までコードを這わせ、照明部たちが自前のスライダックで自然な点滅をするように調整しながら、海にキャメラ用のイントレ足場を立てて…、こんな芸術的なシーンももう二度と撮らないだろうと思い、一丸となって挑戦した。夜光虫なんて原作になかったはず。よく発想できたもんだ。手作りの仕掛けだが、チラチラと巧く光ってくれた。
撮影が一カ月過ぎ、段々と、「離人症」は消えていったが、でも、オレは何を撮っているのかと時々、思った。でも、それを考え出すとまたおかしくなりそうなので、とにかく、誰かの十代のほろ苦い青春だけを思うようにしたが、自分の十代を参考イメージにしたら、また頭がおかしくなりそうで怖かった。
16歳で、「夜の大捜査線」のむし暑いミシシッピに行きたくなったり、西ドイツ映画の「女体の神秘」に昂奮したり、マックィーンの「ブリット」の男に惚れ込んだり、17歳で「真夜中のカーボーイ」に震撼した、ボクじゃないオレの映画体験の日々など、何の当てにもならなかった。
ともかく、〈私〉から距離をおいた映画はどうにか完成した。現像所の試写室から出てきたキティフィルムの代表でもあるゼネラルプロデューサーが、まだ半分病気顔の30才の監督に、「うん、ありがとう。マルだよ。及第点だね」と優しい言葉をかけてくれた。その途端、不思議と、自身から他者がスーッと抜けていくのが分かった。身体も痩せ細って軽くなっているのに気付いた。
映画は83年9月にアニメと共に封切られた。
(続く)
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。