よっし、オレを奮い立たせてみろよ。『スタート・ミー・アップ』だ。ローリ ングストーンズだ。
〈自分〉から距離をおいたテーマだった「みゆき」(人気コミック原作の実写版)がどうにかこうにか完成し、初号試写を見たキティフィルムのゼネラルプロデューサーから、まだ半分離人症顔の30才の監督に「マルだよ。及第点だね」と言葉をかけられたらその途端、まるで魔法がとけたみたいに、ボクの頭から他の何かが立ち去っていき、一年前の普通な自分に戻ったのか、身体まで軽くなったようだった。
その日は普通に撮影スタッフらと日本酒で完成を祝えた、映画への感覚も普通に戻っていた。公開直前の西ドイツ映画の問題作「フィッツカラルド」の試写を見ていたキャメラマンが、「ブラジルのジャングルでさぁ、とんでもないロケ現場をやってたあの変人のヘルツォーク監督がさぁ、もうドイツに帰りたくてたまんないあの変態のクラウス・キンスキーのおっさんに、「帰るな!」って銃で脅して撮影したんだって。いやー、そんな感じが画面に出てたもん、凄かったな」と話題を変えたので、ボクはもう自分の仕上がりをあれこれと反省するのは止めた。
でも、彼が「うちのこのヘルツォークも恐ろしかったもんな、どこが病気だよ。あの七里ヶ浜の海岸、現在の永瀬(正敏)の木陰のバストショットから廻り回って、そのまま過去の回想に入ってって、砂浜まで移動してまた現在まで、3シーンワンカットでやらすんだから、いい勝負したんじゃないの。半円と直線で移動レール、50メートル繋いだなんて初めてだよ。そんで、途中でパンして振り戻す間までに、敷いてたレール10本同時に撤去だろ。エキストラ20人ぐらいに怒鳴りまくりで手伝わせたもんなぁ。勘弁してよって、緊張させんだもん。このヘルツォークさんも」と共に過ごした夏を語り出していた。ボクも熱狂した現場が懐かしくて他人事のように笑える〈自分〉に戻っていた。
ボクにとっての問題作は、仕上げたらすぐ、83年9月にあだち充原作アニメ「ナイン」と共にまさにあだちワールド2本立てで全国一斉封切りされた。封切りの1週間後に渋谷に出たついでに、東宝館をふらりと覗いてみると、客席は意外に混んでいて、一番後ろや一番端の席にはどこから見てもコミックファンじゃないアメリカB級専門の映画青年風や、劇場に似合わないヤンキー崩れのカップルや暇なおっちゃんとおばちゃんカップルがいて、急に笑ったりして見てくれているのが嬉しかった。オレにも東京のファンがいるんだなと初めて感じた時だった。
でも、自分の映画はまた後日に見るとして途中で切り上げ、コッポラの「アウトサイダー」の小屋に逃げ込んでいた。大そうなセットスタジオ撮影作の「ワン・フロム・ザ・ハート」で物語より技巧に走り過ぎていたコッポラが「前のは忘れてこれ見てくれ」と言わんばかりの不良映画で、マット・ディロンもそうだが、紅一点のダイアン・レインの虜になってしまった。これから、こんなカッコいい女優に出会っていくのかな。前途洋々の日本映画界を夢想した。
しばらくは、人の映画ばかり見ながら気楽に日々を過ごした。「みゆき」で貰ったギャラを食いつぶすまで半年は持つか。よっし、旅行でもするかとニューヨークの摩天楼に初めて行ってみた。街と共にある映画「タクシー・ドライバー」がロケしたポルノ映画館の街路などを探し当ててやろうと、何番街の何番通りと、クタクタになって歩き回った。主人公トラビス青年もベトナム帰りで孤独で病んでいながら自分らしい“仕事”をやってのけて、運よく生きていた。
孤独は同じでもオレの仕事は何なんだろう。表現者、映画芸術、作家になれるんだろうかオレは。ソーホーの古い街路を歩くと心が洗われて、サラになれた。
大通りで信号待ちしていると、小柄なウッディ・アレンが横に立ち、街の人たちに笑顔を見せてから速足で横断して行った。映画屋らしくなくて、でも颯爽としていた。
オレも東京に戻ったら、あんな風に何者でもないが爽快に街を闊歩できるだろうか。これから、どんな映画渡世を生きるんだと思った。
もう精神病になるコツは掴んだから二度と精神は病まないだろう。どんな主人公のどんな話だろうと何でもタフに撮れるのか。いや、自分の美を曲げてはならんぞ、信を譲ってはならないんだぞ、全編を自分の思いで満たし、自分の心を写し撮る、それが作家だぞと言い聞かせながら、エンパイヤステートビルの屋上に世界中のおのぼりさんたちと上った。
この街のもう一人の主人公、キングコングの縫いぐるみが何百個も並んでいた。ビルの突先を片手で持って立つコングも自分の心のままに生きたんだ。よっし、オレを奮い立たせてみろよ。『スタート・ミー・アップ(Start Me Up)』だ。ローリングストーンズだ。いや、こっちは28口径ベレッタも44口径も何でもありのトラビスだ。流行りの角川映画でも何でもどんな企画でもかかってこんかい!と気分も撥ね上がった。
翌朝は、ホテルがある6番街の“コンドル”という大阪チックな茶店風カフェで、ト-ストに茹で卵とベーコンとポテトが付いたモーニングセットにありつけて良かった。帰国すると、案の定、次の仕事が待っていた。
(続く)
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。