メジャー感

Vol.159
CMプロデューサー
番長プロデューサーの世直しコラム
櫻木 光

 

不特定多数の人に見てもらって、喜んでもらって、なんなら商品を買ってもらえませんか?

というのがテレビCMなんですが、

それを作るとき、プロデューサーとして請け負って、いつも願っているというか

大切にしていることがあります。

 

それは「メジャー感のあるCMを作りたい」ということです。

それがどういうことなのか、一言で言い表すことができません。メジャー感。

 

映画でも、音楽でも、小説でも、メジャー感のある作品とない作品があります。

メジャー感のある作品がいつも良くて、メジャー感の無い作品がダメか?というと

そういうことでもありません。そんなもん好き嫌いの領域でしかありません。きっと。

 

webの広告なんかは、全部数値化できちゃったりするから、面白くも美しくもない広告の数値が高かったり

コスト効率が良かったりして評価される時がある。

CMは広告であってそれ以上のなにかを持たせるかそうでないかの議論もある。

 

それでも、自分が作ることになったCMの仕事については、

自分なりの好き嫌いを含めた基準を満たすかどうかをよく考えるようにしています。

まあ、僕の仕事は僕の作品を僕だけが勝手に作っているわけではなくて、

広告主やクリエイティブの意向が働いた後に話が落ちてくるものですから、

プロデューサーの好き嫌いの問題でもないんですが。

 

ただ、あいつに頼むといつもメジャーなCM作ってくれるんだよなあ。と思われ続けたい。

 

それでも僕がコントロールできる領域は結構あって、

企画者、演出家、カメラマン、ライトマン、美術機材、色調整、編集、音楽、効果音、録音、そして出演者。

そういった一つ一つ大事なパートを、いろんな制約をかいくぐり空気を読みながら、スタッフを研究する。

メジャー感を求めて参加してもらう人を口説く、組み合わせていく。

クリエイティブや、監督と相談して指示を出す。

それはとても幸せな仕事だと思います。余計なことかもしれませんが。

 

で、僕の思っているメジャー感とは何処にあるのか?と良く考えます。

本当に答えはありません。

メジャー感ってわかりやすく誰にでも理解できるシンプルさでないと出ないということだけはわかっているのです。

でも、これだけ世代間に隔たりが出てくる世の中になると、自分の好きなものがメジャーか?という所に疑問すら生じるものです。

世代で、いいとされるものが共通ではなくなってきました。

 

ただ、そのなかで探すとすれば、なんというか「びっくりするくらい〇〇」という表現だと思うのです。

びっくりするくらい速い球を投げるピッチャー、とか、

びっくりするくらい綺麗な景色、とか、

スターウォーズのメジャー感は、スターデストロイヤーという帝国軍の戦艦のびっくりするような大きさの表現からはじまるあの冒頭部分にやられちゃったところが大きいかもしれないと思っています。

そう思っていました。

 

つい先日、友人の家におじゃましたら、そこにいる「あこねちゃん」という1歳の女の子の赤ちゃんが、僕を見るなりわんわん泣き出しました。

大体の子供は僕と初対面の時は泣きます。

なんででしょう?僕を見て泣かなかった犬と子供を見たことがありません。

邪悪な気配でも感じるんでしょうか?

 

で、あまりにも泣き止まないから、iPhoneでなにかの映像を見せようと思いました。

こんなことで泣き止むかなあ?とおそるおそる。

 

まず、矢沢永吉の「Somebody’s Night」という曲のプロモーションビデオを見せました。

いきなり泣き止みました。泣き止むどころか喜んで、画面を指差してバブバブと興奮しています。

 

ん?お前、もしかして矢沢がわかるのか?

 

じゃあ、これはどうだ?と「面影」というアルバム曲の地味だけどいい曲を見せました。

スローな曲です。ブブーブーといってあまり面白そうではありません。

 だめか、じゃあこれ。って次は「止まらないHa~Ha」というタオル投げの有名曲を見せました

そしたらなんと、あこねちゃん、興奮して踊り出しました。痙攣したような変な踊り。

両手をあげてビビビビビビって。

 

もう、すっかり泣くことなんか忘れちゃったみたいで、

もっと見せろとせがむのでいろんな矢沢永吉の曲を見せてあげました。面白くなっちゃっていろんな曲。

 

赤ちゃんが不思議なのは、曲ごとに態度が違って、気に入ると興奮して声を出したり踊ったり

同じのをもう一回見たがったり、お母さんやお父さんに手招きして一緒に見ろと促したり。

気に入らないとそっぽ向いたり、ブーブーいったり。小さい指で画面を変えようとしたり。

 

「何やってんですか?」と不審に思ったあこねちゃんの父親が寄ってきます。

「変なもんばっかり見せるのやめてくださいよ〜」

「馬鹿野郎、あこねは矢沢ファンなんだぞ。しかも矢沢様を変なもん呼ばわりしやがって

全国の矢沢信者に家の周りを取り囲まれても知らないからな」

 

とか言いながら、実験を続けてみたら、ある法則性が見えてきました。

 

あこねちゃんが、興奮したり踊ったりするのは永ちゃんのヒット曲ばかり。

古い新しいにかかわらず。気にいるとバブバブ。

普通あまり聞くことのないアルバム曲は、たまに気に入りますがほとんどダメ。

気に入らないからブーブー。そっぽむいちゃう。

まあ、ヒット曲か捨て曲かなんて、しかも矢沢永吉の曲で、赤ん坊には何も区別はありません。

 

父親が「わかるんですねー、ヒット曲って、言葉もわからない子供にも。いい曲なんだ!」

「そうだよね。やっぱりメジャーな曲はなんというか歌詞の意味なんか関係なく人が興奮するようにできてるんだなー。わかりやすいんだな」

この場合、あこねちゃんが永ちゃんの何が気に入ったのかわかりません。

曲なのか、歌声なのか歌ってる姿なのか?白いスーツなのか?

 

本当に不思議なものです。

でもなんとなくメジャー感の本質のようなものが見えたような気がしました。

言葉も話せないような赤ん坊が興奮するようなもの。

つまり人間の本能のどこかをさわるような制作物。

そういうものにメジャー感が宿るのではないか?

と思うような出来事でした。

 

ただ、CMはそう簡単にはいかない。

いろんな事情の詰まった、前にも書いたけど自画自賛を打ち消して、なお魅力的に見せる作りになってないといけない。

本当に、人様のお金で自分の作品を作っちゃうほど厚かましく生きてはいない。

広告は文化だというような思い上がりもない。

 

オンエアが少ないと人の目にも止まらない。話題にならないとYouTubeで検索されたりもしない。

そんな中にメジャー感を芽生えさせる。何処にそのエッセンスを入れようか?

予算がないから安っぽくなりました。っていう人は予算があっても安っぽい。

そうなりたくないのです。

 

毎回ケースが違うから、毎回違うことを考える。

そういう話ならこれやりませんか?こういう人がいますよ。こんなことをやってるんですよ。

そこに、なんというかプリミティブな感情を刺激するような人や考えを入れていきたい。

その一つが「ものすごい〇〇」なのかもしれないし。

赤ん坊にとって矢沢永吉の「ものすごい〇〇」はなんだったのだろう?

それがなんだかわからないのだけど、それを考えるのが面白いんだよなあと思うのです。

 

プロフィール
CMプロデューサー
櫻木 光
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。

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