体罰問題について思う事

番長プロデューサーの世直しコラムVol.74
番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光

全日本柔道女子やどこかの高校のバスケ部の体罰問題が話題になっています。この問題、いじめやパワハラ、家庭での虐待にも通じるところがある。通じるところがあるから一色単に語られている事が多いと思うのだけど、ここは分けて考えなければならない。と思うのです。

暴力には、けんか、いじめ、体罰、パワハラ、虐待、などがあり、それぞれ性質が違う物です。全部一緒じゃありません。人間同士の関係性が違う。 けんかは、その後どうなるかはわからないけれど、当人同士好きにすればいいし、いじめは卑怯の極みだから当たり前にやっちゃいけないこと。虐待には精神的な病気の兆候もあります。自分で自分を制御できない病気。

論調としては、とにかくなにがなんでも「暴力」には「原子力」のように拒否反応があって、体罰を暴力反対という大きな蓋でがっつり閉めててしまえば、もう見なくていい。というような雑な風潮に見えるのです。

それぞれの「暴力」の違いも無視して「暴力は問答無用でいかん」と言っている人に限って、殴った事も殴られた事も無い人が多い。やった事もやられた事もねえ癖に言うんじゃねえよ。と思うのです。

人を殴っても、殴られてもうれしい事なんかこれっぽっちもありません。痛いし辛い。法的にも人を殴って得する事なんて一つもない。本当にむかついてけんかして殴り合いになったとしても、勝っても負けてもものすごい後味の悪い物です。その気分が分からないまま「暴力はいかん」と建前だけ言う人たちに違和感を感じる訳です。説得力が無い。暴力に関わった当事者同士の結論は「暴力は嫌だ」というところにいくのだけど、そこまでの過程でひどい目にあって、はじめて失うものが解る。殴られた側にだって、「人が殴り掛かってくるくらい怒らせちゃった自分は、なんて事をしちゃったんだろう。」という後悔もあります。

もう一つ言うと、暴力をふるわなかったら何してもいいのか?という問いも残ります。卑劣な手で、殴るより人の心にダメージを与える手段はたくさんあります。「言葉」の暴力も人の心に相当なダメージを残すでしょう。殴るのは駄目だ駄目だと言っている間に、今はそっちの方が巧妙になり、ひどくなってきてるんじゃ無いかとも感じます。

そもそも「体罰」は本当に「悪」なのでしょうか? 実は学校での体罰も大きく分けると2種類あると思うのです。 「教室での体罰」と「運動部での体罰」。

教室での先生から生徒への体罰は、ちょっといじめに近い印象があります。 中学までは義務で通っているんだし、生徒には教師を指名したり、クラスを移る自由もない。その関係性においては、殴るのは無しです。

では、最近問題になっている運動部の体罰はどうか? この運動部の体罰は、けんかやいじめ、パワハラなどの暴力行為とは根本的に違う意味があると思うのです。

運動部は、自分で選んで入部する。ということは入る人間の自己責任です。 強制的にやらされている訳ではない。 入った先でどんな事が待っているかなんて承知で入ってくるんです。ご丁寧に体験入部だってある。どんなチームでどんな指導者でどんな伝統があるか?なんて調べないで入部する奴はいませんね。いたら論外です。

「先生、バスケがしたいです」 といってニコニコしながら入ってくる。 入った部活が気に入らなかったとして、退部の自由も選手側にあります。 「先生、もうバスケはしたくないです」ということもありです。 それとは逆に「おまえ、もう、バスケ辞めろ」という辞めさせる自由は 指導者側にはありません。特別な学校をのぞいて入部を拒否する権利も無い。

また、スポーツの指導者っていうのも切ない職業で、勝ったら選手のおかげ、負けたら指導者の責任。という見られ方が染み付いているので、なかなか割にあわない職業とも言えます。学校の先生だとしても負けが込むとすぐに解任させられてしまいます。だから必死です。先生としての評価がかかってますから。だから指導者もガチでやります。

スポーツの指導者が選手の育成の先に目指すのは、どんな相手でも、どんな状況でも、顔色一つ変えずにいつも通り、練習した通りの事をいつもできる。という事につきると思います。人間は弱い。特に高校生くらいまではメンタルに揺らぎがいっぱいありますから、なかなかうまくいかない。

指導者は選手に要求します。できるようになっていつも通りやれ。と。でも、うまくいかない事の方が人生には多いのです。で、物事のよくわかっていない、世間知らずの運動部員は、ふてくされたり、反抗したりするんです。

ふてくされたり、反抗したり、落ち込んだりするという行為は、世の中に出ても何の役にも立たないんですよ。という事をスポーツを通じて学んでいる途中なんですから、そりゃあ怒ってあげなきゃいけません。

プレイ中に失敗して、タイムアウトをとって選手を注意する。選手は興奮状態にあって、しかも、失敗した自分への悔しさや、仲間への罪悪感や、恥ずかしさやなんやかんやで頭が混乱している様な状態を制御できなくて、怒ったり、人のせいにしたりしてふてくされた状況になる。そういうときに一番効果的なのは「がたがたうるせえんだよ。いつも通りやれよ」と一発くれてやることです。選手はハッと我に返る。最優先時効は目の前の試合に勝つ事で、自分のメンツではないということに気づくからです。自分でもそういう事に何度も救われてきました。程度の問題もありますが、ショック療法です。

それは、禅寺の坊さんの修行にも近いところがある。修行に入って、座禅を組む。雑念が入ったり心が揺らぐと板で肩をしこたまたたかれる。昔、座禅の体験修行をしたことがありますが、あれ、ものすごい痛いんです。見透かされたようで心も痛い。あれも明らかな体罰ですが、誰があれを体罰だというでしょうか?

スポーツも一種の修行です。心の揺らぎを無くし、相手の妨害をかわし、正確な技術で得点をする。そのために、たった一回の試合のために何千時間もかけて準備をする。飽くなき反復練習。

自分で修行を望んで徳の高い選手になりたいと思っていたくせに、限界がすぐに見えちゃって、それ以外の問題も含めてふてくされて、怒られて、で指導者を訴える。という状況が今の構図だと思います。そういう事を凌駕した本当に一番強い選手には指導者からの体罰なんてありません。半端な選手だからしかられるんですよ。

学校の部活ではありませんが、柔道全日本の女子なんて、日本で一番徳の高い柔道の修行僧たちが集まって修行をしている場です。体罰は修行の一種なんだから、どうしても納得できない場合は指導者と一対一で話し合うか、やって返すべきでしょう。それを指導の坊さんが気に食わないって、同じ事を思っている奴らが集まってみんなで抗議をするなんて、実情はそれだけすごい事があったんだと思いますが、外から見たら茶番だと思うのです。 修行は自分のためにするものです。一人で話して一人だけ嫌な思いをするのは嫌だと集団で訴える精神が好きじゃない。柔道は個人競技で、試合の畳の上ではいつも一人なんだからなおさらですね。

運動部出身の学生は、いまだに社会で重宝されている。それはなぜか? 彼らは運動部で、体罰や、先輩の圧力や嫌がらせ、何とか当番の不条理なんかを乗り越えなくては自分が強くなれない、勝負に勝てない、ということを徹底的にトレーニングしているからです。たとえ純粋に試合に負けたとしても、負けた事を引きずっていると生きて行けないし、切り替えて次に努力を始めるしか無いことを知っている。 人生には、体罰に近い、自分では納得できないような理不尽な事はたくさん起きるわけですが、彼らはそこでつぶれない。我慢して、熱意を持って働く。 運動部が、社会に都合のいい人材を排出し続けてきた歴史もあるはずです。

なんて書いて行くと、指導的暴力は学校ではいかんが運動部ではいいのだ。と書いているように思われますが、少しそう思っているところもありますが、そうではありません。 指導者は暴力をふるわなくても選手に理解させるロジックを持つべきだという意見には賛成です。その通りです。でもそんなロジックと行動力のある人はもっと違うフィールドで活躍しているでしょう。それが現実なんです。

要するに、指導っていうのは人それぞれの個性にあわせてやり方を考えるもので本人同士が納得していればそれでいいんじゃないでしょうか?。

僕は相当生意気だったし、反抗的で自分本位だったので、相当体罰を受けました。でも怒られて殴られる時は、殴られて当然だなあって時なんです。大半は。それでハッと気づいた事は数限りなくあるし、感謝している事もあります。 社会に出るともっと理不尽な事があるんですが、それを我慢できるようにしてくれたのはあの時の体罰だとも本気で思います。痛みは心を強くする。 逆に、理不尽すぎる事があった時は、ちゃんと行きましたけどね。その先生のところへ。

もっとも最近では、教師は生徒を怒らないそうです。宿題をしてこなかった生徒にすら「今度はちゃんとやってきてね」としか言わない。これはもう先生が生徒に対して「無関心」を装うしか無いという結論に達した感があります。愛情の反対語は憎しみではなくて無関心です。 子供の躾はだれがやるのか?そりゃあ親ですね。親が自分の子供の躾を学校に丸投げして、やり方が気に食わないと文句を言う。生徒ですら体罰根絶を逆手にとって、ゴツンとやられようものなら「それって体罰ですよね。教育委員会に言いますよ」と言い出す始末。教師が、情熱をもって指導して文句言われるなら、無関心を装う方が利口だと判断するのにも、同情の余地があります。

「教師は教育のプロなんだから」という建前で責任を押し付けて、見下していながら、自分のした事や、やらなかった事を棚に上げて、感情的になった教師や指導者を批難する。それが、たまらなく気持ち悪いのです。全部先生のせいなのか?冷静に考えるとスポーツや学校が人生の全てではないはずです。

一番気持ち悪いのは建前です。暴力絶対反対。教師はロジックで人を説得して正しい道に導け。 みんな話し合いで解決できるなら、オスプレイも海兵隊も自衛隊もいらないでしょ。暴力絶対反対派は家に強盗が入ってきたら、ロジックで説得するんでしょうか?「そんなことをしてはいけませんよ。」って。暴力は仕掛けるだけでなく、突然襲ってくる事もある。それの対処の仕方も考えて生きて行かないと何かを奪われっぱなしになる。

何でもかんでも禁止にしちゃえば問題は起きないという考え方が本当に雑だと思うのです。それで過保護になってへなちょこみたいな奴ばっかりの世の中になる。既にそうなっています。日本は自己責任を問わないまま問題が起きる事を嫌いすぎていると思うのです。自己責任を嫌がり、問題を回避する術ばかりを身につける。だから駄目になってくる。決断しない、判断しない、交渉しない、責任とろうとしない、逃げる、嘘つく、陰口を叩く。 そういう卑怯な真似をするんじゃねえ、という正しい体罰が僕の若い頃はあった様な気がします。

Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
~株式会社リフト 第一制作部 チーフプロデューサー~

  • 1968年 佐賀県生まれ、44歳。
  • 1991年 ニッテンアルティ入社(旧 日本天然色映画株式会社)
  • 2000年にプロデューサーに昇格。
  • 2009年 社名がリフトに変更。

プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが(日本にはCMプロデューサーと名乗る人が2000人もいるそうです)、自分のケツを自分で拭こうとしているプロデューサーは何人いるでしょうか?矢面に立つのは当たり前だとつっぱって仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。根性論を書いているかと思ったら、意外に現実論者でもあります。

<主なプロデュース作品>

  • AGF ブレンディボトルコーヒー(原田知世さんと子供)
  • 日清食品 焼きそばU.F.O
  • マルコメ 料亭の味
  • リーブ21 企業CM
  • コーセーサロンスタイル 『髪からはじまる物語」行定勲監督Webムービー
  • クレイジーケンバンドPV
続きを読む
TOP