「映画で見て憧れたニューヨークに渡って、色々と思った。映画のアイデアなど何も湧いてはこなかったが、とてもいい息抜きだった。」
知人の小さな制作会社のにわかな発案で、吉本所属の怪しい漫才師、西川のりお、上方よしおコンビと怪しい俳優の伊武雅刀のビデオ用コラボコント企画が急に進み出したので、ボクもボケっとはしていられなかった。でも、実は前から、ニューヨークに一週間の旅行に出る予定はしていたので、そこだけは譲らず、マンハッタンの摩天楼見たさに、ボクは東京から逃げるように飛び立っていた。劇場用映画じゃないし、ビデオ販売用のモノだ。まあ、帰国したら一気にやっちまおう、肩に力を入れて気を張って、考えまくって、何晩となく慰めに酒を飲んで立ち向かうモノでもなし、どうとでもなれ、この仕事はそんな肚(はら)づもりだった。 初めて見るマンハッタンは格別のショックだった。まるで、アメリカの片田舎の州からやって来た「お上りさん」だった。JFK空港から地下鉄に乗ってきて、急に、5番街の60丁目あたりのビル群の谷の底に放り出されると、自分が果たして何人だったかなど自覚もできず、そんな心の整理をしている余裕もないほど、多人種たちの息遣いに圧倒されるのが、妙に愉快だった。 「アメリカの自由」とはこういう空気なのか。アメリカの温かさと冷酷さが同時に伝わってきて、それもなぜか妙に懐かしかった。アメリカの映画ばかり見てきた所為なのか、夕方から黒人は大きなピザを両手で持って丸かじりしながら路地を歩いているし、信号待ちの群れの中には平気でウディ・アレンみたいなおっさんがクラリネットを練習しているし、その横に立っていたボロ着の白人の兄ちゃんがいきなり、ボクに「1ドル、くれよ」と声をかけてくるし、いつか見たジョン・シュレシンジャー監督の「真夜中のカーボーイ」そのままだなと思った。 アメリカ資本主義の中で成功する者と失敗して都市から消えていなくなる者、毎日、成功を夢見続けている者と挫折して野垂れ死寸前の者と、それぞれの命運に立ち向かうアメリカ人たちの息づかいがあちこちに。世界中から移民を受け入れてきた「実験国家」がまじかにあった。カフェで一服つけるマールボロはうまかったが、ミートパイはデカくても美味しくはなかった。日本の味の細かさを知る人はあたりにいなかった。でも、摩天楼の上に響いて昇るタクシーのホーンは心地よい雑音で、上気した気分をなだめてくれた。 ホテルの部屋に入るや、東京からのコント企画の台本がファックスで届けられていた。しばらく、目を通す気にもならなかったが。 『タクシー・ドライバー』の海兵隊上がりのトラビス青年が歩いたポルノ映画館の通りを探しに行く前に、『ゴッド・ファーザー PARTⅡ』にあった場面が見たくて、移民船でやって来たビト・コルレオーネ少年が仰ぎ眺めた自由の女神が見える所まで出かけた。ボクこそ、これからどんな新天地を目指せばいいのだろうと、ボクの映画の新天地ってのはいったい何だろうか、フェリーのふ頭で佇みながら、あれこれと思案してたら、ファックスで届いたコントの台本など読む気にならなかった。トーチを掲げた女神もボクを見下ろこともなく、ひたすら遠くを見ていた。 アメリカ文明と日本の文化の根本的な違いは確かに感じたが、その分、今までに見てきたアメリカ映画が自分から遠のいていくのも分かり、これはもう一度、ビデオででも見直さないと変な思い込みのまま流してしまうことになるなと、思った。ソーホーやグリニッジビレッジのジャズライブバーにも調子に乗って屯(たむろ)してみたが、ジャズ自体が騒音にしか聞こえず、ビールもさほど美味しくなく、ホッとしなかった。 そんな中じゃ未来の映画の発想も浮かばず、日本の映画は日本人が日本語で作るしかないな、が結論だった。セントラルパークで(映画「マラソンマン」とそっくりの)ダスティン・ホフマンのようなマラソンマンが、アメリカの日々の憂さを振り払おうと走っていた。 東京に戻ると、コント企画の準備が始まり、方々の物書きたちに頼んでいた台本を印刷するにあたり、タイトルは、テレビドラマの『コンバット』をもじって、英語と関西弁をくっつけて『COMBATってんねん!』と決めた。東京のスタッフが思わず笑ってくれた。 そうなんだ。思わず笑うそんなコントビデオにしよう。「誰も皆、毎日走ってんだ」というより、「戦ってんや」というのがテーマになった。 ――米軍服の西川のりおサンダース軍曹が相方のよしおと戦車に乗って、砲弾を撃ちながら登場する―ーというのが1行目だ。 「よっし、ここは角川映画の誰かに頼んでみるか。あの千葉真一が乗ってた『戦国自衛隊』の戦車しか民間用はないんだもんな」 さっそくに連絡をすると、「まだ壊さずに、江東区の倉庫に置いてますよ。使うなら貸しますよ、ただ自走したら違反なので、トレーラーで運んで下さい。」と。 「それは、有難いですね、すぐに」と答えると、 「戦車の上で漫才するって、どこの映画なんですか?」 「いや、ショートコントで」 と返すと、 「ブルトーザーに鉄板貼って囲っただけのヤツなんで、音がうるさいけど上手くやってください」と笑われた。 現場も愉しい戦場だと、皆、日頃の憂さを晴らさんと、取り組んだのだった。
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。