さよならニッテン
- 番長プロデューサーの世直しコラムVol.76
- 番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光
ただ、永ちゃんに会いたかっただけだったんです。 俺は一体これからどうなっていくんだろー?と悩んでいた浪人生の頃 福岡天神の新天町の本屋で見たACCの年間に載っていた 資生堂のコマーシャル。 プールサイドで永ちゃんが水着の女とキスしてる。 そのコマーシャルを制作した会社が日本天然色映画でした。
調べると、日本天然色映画株式会社は 日本のCMプロダクションの草分け的な会社で 故杉山登志氏をはじめ、きら星のような演出家を輩出している会社である。 と書いてある。
俺の職場はここだな。 と勝手に思いこんだのです。
東京に来て、新宿で日本天然色映画を探し 願書をもらって、試験を受けました。 「補欠です」と言う連絡があり 誰か辞退しろと願った日々。 晴れて採用になりました。 これで永ちゃんに会える。と思いました。いなかもん。 なんか間違っていたんです。そんなもんだったんです。
入社したら日本天然色映画はニッテンアルティという名前に変わっていて 僕はニッテンアルティの一期生になりました。 プロダクションマネージャーでの採用。 毎朝9時半に来て夜中の3時や4時に帰る毎日。休み無し。 時給に換算すると200円くらい。コンビニで同じだけ働いたら富豪です。 予想を大幅に超えた日々が待っていました。なんだこりゃあ。と。 でも会社は魅力的な先輩達であふれていました。
プロダクションマネージャーとして仕事を覚え始めると もう、面白くなっちゃって、夢中になって仕事をしました。 海外ロケにも行くようになると、色んな国に撮影に行き、色んな人や物に出会いました。 こんないい仕事はないぜ。そう思いました。
そのうち当時の社長にかなり無理を言って 親会社のロスの出張所へ出向させてもらい、アメリカで暮らすことになりました。 これまた、見る物さわる物新鮮で、色んな事を吸収させてもらいました。 そこにも魅力的な仲間が待っていました。
その後帰国し、プロデューサーになり、自分で仕事をとってこれるようになると なおさら、この仕事は益々かわいくなり、ヤオモテにたってやる気になりました。 そして、ついに撮影現場で夢の永ちゃんにお会いできました。 「あんただれ?」って言われて大喜びしたのを覚えています。 「お母さん、ついに永ちゃんにあったよ」 もう田舎に帰ってもいいやと思いました。
ぐしゃぐしゃの20代とイケイケの30代はあっという間に過ぎ 気がつくと40代になっていました。本当にあっという間でした。
会社でも責任が重くなるその頃からなんとなく息苦しくなってきました。 気がつくと、実作業的なことから少し離れ、大変なことは部下に任せ なんとなく威張っていられるような立場を作ってしまっていました。 制作する戦いよりも売り上げる戦いに参加するようになっていたんです。 それでいいのだと言い聞かせながら、それじゃ嫌だとも思っていました。 ただ、流れに任せて言いたいことだけを言っている自分がいたのです。
世の中のシステムが急速に変化していく中で、テレビコマーシャルの ありかたも、役割も、利益の構造もずいぶん変わって来ていました。 ニッテンアルティもメンバーが替わり、名前もリフトになっていました。
そんな中で嫌なことやうまくいかないことが起きると ふてくされたり、知らん顔をしたり、やる気をなくしたり、そんな自分が気に入らなかったり。 なんとなく不本意な気分で暮らすようになりました。 それでもありがたいことに仕事はありました。 仕事は一生懸命やりましたが、自分には満足できなくなっていたのです。 なんだおまえ?と。
あのあっという間の20年をもう一回繰り返すともう終わりなんだなあ。 と思ったら急に恐怖になりました。ふてくされている場合じゃない。と。 40になったら分かります。人生はやっぱり短いんだと。 これから緩やかに衰退していく自分を見るのは嫌なので 思い切ったことをしないと看板にあぐらをかいたままで 俺は近々終わってしまうだろう。 と思ったのです。
永ちゃんも還暦をすぎ、おじいさんになっていましたが健在でした。 昨年の秋に、横浜で行われた矢沢永吉デビュー40周年のコンサートで 6万人を熱狂させて歌う永ちゃんの歌を聴いて、ついに決心がつきました。
「ホントはもう気づいているんだろう、 時代のせいばかりじゃ無いことを おまえはどうなんだい?Look at you!」
そう歌っていたからです。またあんたかよ。わかりましたよもう。やりますから。 僕の残りの20年を終わったときにこの人のようにまだやっていられるのか?
というわけで、この春、22年間在籍したこの会社を退職することにしました。 僕は、辞めたくて会社を辞める訳ではありません。 どこからか引き抜かれた訳でもない。 自分の中に仕事に対してルールがあって、そのルールを守れなかったので 自分にけじめをつけるために辞めます。 会社では、そんな事気にするなとか、関係ないとか言われましたが 大切なのは会社や組織のルールを優先する事ではなくて この仕事に対しての最優先時効を決めて、自分でルールを 作ってそれに従う事だと思うのです。
そうしないと、ころころかわる人や集団の都合に振り回されてしまう。
だから、部下も上司も知り合いのいない、全く新しい場所で、同じように テレビCMを作るということにチャレンジします。丸裸です。
さよならニッテン。
気がつくと、なんと人生の半分も過ごしていた会社。 田舎で育ったよりも長い時間いたんだからもう故郷です。 色んな人と出会って別れた。かっこ悪くて優しい人ばっかりだった。 懸命にやりすぎて、傍若無人に振る舞い、色んな人を傷つけた。 好きも嫌いもひっくるめて大好きでした。それが故郷だから。
本当にありがとうございました。
僕は頑張ります。あと10年は全力で走る。 この先に起きることがどんなに辛くても 僕にはニッテンで身につけた強靱な武器があるから大丈夫です。 僕はラストニッテンなんだから。
この決断が正解かどうかなんて、死ぬ直前に分かるでしょう。 それでいいじゃないかと思うのです。 死ぬ直前にわかっても、もう、どうでもいいんですから。
「ホントはまだ覚えているはず。 ぎらぎら燃えてたあの日を 決着つけなよ UP TO YOU!」
全ては自分次第です。 自分に決着をつけに行ってきます。ではごきげんよう。
Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
- 1968年 佐賀県生まれ、44歳。
- 1991年 ニッテンアルティ入社(旧 日本天然色映画株式会社)
- 2000年にプロデューサーに昇格。
- 2009年 社名がリフトに変更。
- 2013年 株式会社リフトを退社
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが(日本にはCMプロデューサーと名乗る人が2000人もいるそうです)、自分のケツを自分で拭こうとしているプロデューサーは何人いるでしょうか?矢面に立つのは当たり前だとつっぱって仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。根性論を書いているかと思ったら、意外に現実論者でもあります。
<主なプロデュース作品>
- AGF ブレンディボトルコーヒー(原田知世さんと子供)
- 日清食品 焼きそばU.F.O
- マルコメ 料亭の味
- リーブ21 企業CM
- コーセーサロンスタイル 『髪からはじまる物語」行定勲監督Webムービー
- クレイジーケンバンドPV